花見とかの自粛について
近頃の自粛ムードについて考えてみる。
例えば花見について、戦時中を引き合いに出して、自粛した方がいいという声もあるようだが、戦時中と今とでは、経済の状況が違っている。
戦時中と現在の経済状態をそれぞれ書くと、まず、戦時中は生産力がフル稼働状態であったし、お金も沢山出回っていた。
男も女も、老人も学生も、働ける者はみんな働きに出て、なにがしかの生産活動に関わっていた。
この場合の物資の不足は、生産力の限界まで生産しても、それでもモノが足りない、ということであった。
お金も沢山出回っていた。
政府は戦時国債を発行しまくって、軍需品やら民需品やらの、生産のための資金に充てた。
政府の一般会計と、軍事費を合わせた予算の合計は、昭和12年〜昭和20年までの10年足らずの間(支那事変が始まってから戦争が終わるまで)に、
55億円から、2221億まで、実に40倍に膨張している。
生産力をフル稼働してもモノが足りないのに、お金はジャンジャン出回るから、当然インフレが進む(統制経済下のため、予算の膨張ほどではないが)。
旨い酒や料理なども、世の中に無かったわけではないが、戦地に行く人優先ということで、一般人には回ってこなくなる。
戦時中は、そういう経済環境だった。
では、今はどうか。
デフレ経済で、生産力は余っている。
お金も出回っていない。
確かに、東北関東の工場の被災や、電力不足というマイナス要素はあるものの、日本全体で見れば、生産力は余っている。
もっとモノが欲しいと思えば、もっと生産できるような状況だ。
戦時中は「生産力がフル稼働」、今は「生産力が余っている」、これが大きな違いだ。
そして、生産力が余っている状態で、自粛が広がるとどうなるか。
消費が少なくなるとどうなるか。
当然、モノを作っても売れなくなるのだから、生産力がもっと余る。
生産力が余ると言うことは、失業が増え、企業の売上げも減る。
税収も減る。
基本的に経済というものは、誰かにモノが売れることによって成り立っている。
商品やサービスも含めて、誰かにモノが売れることによって、生活が成り立っている。
これは被災地もそうだし、被災地じゃないところもそうだ。
自粛によって消費が減れば、モノが売れなくなれば、それは、ごくごく簡単に言えば、誰かの生活が、その分成り立たなくなることを意味している。
それは、被災地の人かも知れないし、被災地じゃない所の人かも知れないが、いずれにせよ、誰かの生活がその分成り立たなくなる。
それが被災地の人に当たれば、当然生活は更に更に厳しくなるだろうし、被災地じゃない所の人に当たっても、失業対策とかで政府の財政負担は増えるだろう。
募金は、確かにいいことだ。
でも募金は継続的なお金じゃない。
一時的なお金でしかない。
募金で被災地の急場を凌ぐことは出来るが、募金で被災地の生活を成り立たせて行くことは出来ない。
だから、日本のことを思い、被災地のことを思うなら、通常の消費活動した方がいいだろう。
それが、誰かを一時的に助けるだけじゃなく、生活を成り立たせて行くことになる。
そうは言っても、この時期に飲み屋に行くのは気が引ける。
同じお金を、別の所に使うならどうか、そういう考えも、あるにはある。
だけど、みんなが飲み屋に行かなくなれば、飲み屋の人は職を失うし、飲み屋の仕入先もダメージを受ける。
被災地で、飲み屋に品物を納めている人がいれば、当然その人もダメージを受ける。
この時期に、職を失い、納入先を失うのは、なかなか厳しいものがある。
同じお金を別の所に使うから解決、というものでも無い。
だから、なるべく普段通りの生活をした方がいいのだ。
僕の推測だが、もっと言うと、ハッキリ言うと、被災地から遠く離れた所の人間が、禁欲的な生活をしたからって、被災地には何の足しにもならない。
被災地から遠く離れた所の人間が、おいしいご飯を食べるのは気が引けると、ご飯と納豆だけの生活をしたところで、被災地の生活は、何も良くならない。
禁欲的な生活を送っても、「被災地の人に申し訳ない」という自分の後ろめたさを満足させるだけであって、被災地の生活を支え、被災地の不安を和らげることには繋がらない。
それによって被災地の売上げが減るとすれば、むしろ被災地にさらなる追い打ちをかけることになる。
自粛は自分のためにしかならず、被災地の生活のためにはならない。
本当は、通常通りの生活に戻るのが一番なのだが、それが後ろめたくてどうしても出来ない、というのなら、被災地の商品でも買いまくればいいじゃないか。
後ろめたいからと、ご飯と納豆だけの生活で消費をしないくらいなら、被災地のモノを買いまくった方がよっぽどいい。
自粛自粛で、ご飯と納豆だけの生活したって、それは自分の心が落ち着くだけで、日本のためにもならないし、被災地の生活も改善しない。