小佐古先生への疑問

校庭への年間20mSvの適用を巡っての話。
本来であれば、私などが疑問を示せるレベルでは無いのだが、今回の小佐古先生の発言については、私なりに疑問を感じることがあるので、書いておく。

小佐古先生の、内閣参与辞任にあたっての考えについては、以下に全文が示されている。
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/80519.html

校庭への年間20mSvの適用に関する該当箇所を抜き出すと、以下のようになる。


今回、福島県の小学校等の校庭利用の線量基準が年間20mSvの被曝を基礎として導出、誘導され、毎時3.8μSvと決定され、文部科学省から通達が出されている。これらの学校では、通常の授業を行おうとしているわけで、その状態は、通常の放射線防護基準に近いもの(年間1mSv,特殊な例でも年間5mSv)で運用すべきで、警戒期ではあるにしても、緊急時(2,3日あるいはせいぜい1,2週間くらい)に運用すべき数値をこの時期に使用するのは、全くの間違いであります。警戒期であることを周知の上、特別な措置をとれば、数カ月間は最大、年間10mSvの使用も不可能ではないが、通常は避けるべきと考えます。年間20mSv近い被ばくをする人は、約8万4千人の原子力発電所放射線業務従事者でも、極めて少ないのです。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです。年間10mSvの数値も、ウラン鉱山の残土処分場の中の覆土上でも中々見ることのできない数値で(せいぜい年間数mSvです)、この数値の使用は慎重であるべきであります。
小学校等の校庭の利用基準に対して、この年間20mSvの数値の使用には強く抗議するとともに、再度の見直しを求めます。


年間20mSvの適用に反対である理由として、まず、
『通常の授業を行おうとしているんだから、通常の基準値で運用すべきで、緊急時の数値をこの時期に使用するのは、全くの間違い』
といった趣旨を述べている。

私の理解では、今回の校庭利用の基準値の話は、原子力事故という状況の中で、どこまでなら通常の校庭利用を行って差し支えないか、という評価の問題だと思っている。

これまでの年間1mSvというのは、通常時の原子力施設の操業を監視するための基準値であって、健康に影響がでる/でないという基準値では必ずしも無い。

今回、事故が起きてしまった状況の中で、どこまでなら健康に安全な数値と言えるかを問題としているときに、健康に影響がでる/でないという基準値では無く、通常の原子力施設の操業を監視するための基準値で考えるのは、少し違うと思う。

小佐古先生が、20mSvでは安全とは言えない、1mSvでなければダメだと言うのなら、20mSvではいけない理由を、もう少し具体的に、20mSvでは体にどの程度の影響が考えられるから、だから認められないんだと、そういう風に説明して欲しかった。

「通常の値であれば通常の授業を行える」、というのは放射線に何の見識も無い素人でも考えられる話で、今回専門家に求められているのは、どの値ならどの程度の影響が考えられるので、ここまでなら安全な値としていいだろう、という話ではないかと思う。

「どこまでであれば通常の校庭利用を行って差し支えないか」、という事を考えているのに、「通常の授業を行うなら通常の値だ」と言うのは、答えになっていないように思えるのだが。

同じような意味で、

『年間20mSv近い被ばくをする人は、約8万4千人の原子力発電所放射線業務従事者でも、極めて少ないのです。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです。年間10mSvの数値も、ウラン鉱山の残土処分場の中の覆土上でも中々見ることのできない数値で、この数値の使用は慎重であるべきであります。』

この部分も、あまり説明にはなっていないように思える。
原発作業員に年間20mSv被曝する人が極めて少ないというのも、ウラン鉱山の残土処分場でも10mSvも見られないというのも、それらは、そこで、そういう値だったと言うことで、それが健康にどれくらいの影響があるかとは別の話だと思う。

学者としての小佐古先生に期待したかったのは、どれくらいの値であればどれくらいの健康影響が考えられるから、だから安全と言える基準値はここまでとすべき、という説明なり批判であって、ヒューマニズムからして受け入れられない、との説明は、学者としての十分な説明と言えるのだろうか。


ヒューマニズム」という言葉が出てきてしまうと、非常に疑問を呈しづらくなる。
「私のヒューマニズムからそうした」と言われれば、小佐古先生にはヒューマニズムがあり、他の専門家にはヒューマニズムが無かったような印象になるが、そうなのだろうか。
それぞれの専門家が、それぞれの良心に従って、判断をしているのではないか。

専門家集団と言っても、専門家同士で意見が異なることはあるので、内部で意見の相違があったのかもしれない。
ただ、20mSvが基準となっているからには、賛成した専門家も複数いたのだろう。

であればこそ、ヒューマニズムといった話ではなく、「これこれこういう理由でこれだけの健康影響があるから、私はこう判断する」といった形で示して欲しかった。
それであれば、他のこれまでの基準なり、他の専門家の話と照らし合わせて、それぞれの主張の中身を考えることが出来るし、それぞれの主張の当否を、自分なりに判断することも可能だ。

小佐古先生には小佐古先生なりのヒューマニズムがあったのだろうし、学者の良心もあったのは間違いないだろう。ただ、それだけでは他の専門家にはヒューマニズムが無かった、学者の良心が無かったとは言えないのではないか。
ぜひ、小佐古先生は年間20mSvでどのくらいの健康影響が出ると考えたのか、その当たりを、分かるように説明して欲しかった。



次に、仮に年間1mSvが妥当な数字であったとしても、疑問が残る。
子供達が生活しているのは、学校だけではない。
家に帰ってからも、多くの時間をそこで過ごす。
家の近所で呼吸もするし、走り回りもするし、遊びや通学途中で転ぶことだってあるだろう。
むしろ学校の校庭は子供達の生活の一部で、学校以外でも、子供達は多くの時間を過ごしている。

計画的避難区域は年間20mSv以上とされているが、学校の基準が1mSvで、学校以外の基準が20mSvであるとしたら、整合性が取れないと思う。

子供というものは、学校以外でも多くの時間を過ごすのだから、学校での基準が1mSvであるというのなら、計画的避難区域も1mSv以上とすべきではなかったか。
多分、1mSvとすると避難区域は福島県の大半や茨城県北部にも及び、物凄い数の避難者が生まれると思うが、現実としては、その1mSv区域の中で、大人も子供も妊婦も、通常の生活を送っている。

通常のことをするのなら通常の値でなければならない、1mSvでなけれれば安全とは言えない、20mSvでは無視できない健康影響があると言うのであれば、学校だけでなく、全ての基準を1mSvとし、計画的避難区域とすべきではなかったか。

現実として郡山市では、市が校庭の土を削ったのを見て、自分の家の土も削って、川などに投棄しているという話もあるようだ。
住民にとっては学校だけの問題ではなく、自分が住んでる地域全体の問題だし、この心理は当然の反応だろう。

どうも、「学校の話」ということで、話がクローズアップされ過ぎているのではないか。
子供達が生活するのは学校だけではないので、学校以外も含めた地域全体で、子供への被曝量を考えるべきではないのか。
であれば、片方が1mSvで片方が20mSvという話は無いように思う。
片方が1mSvならもう片方も1mSvだし、片方が20mSvならもう片方も20mSvであるはずだ。
どうもその辺の整合性に、疑問を感じる。


もう一つ、ここまで、
「どれくらいの値であればどれくらいの健康影響が考えられるから、だから安全と言える基準値はここまでとすべき」
という説明をして欲しかった、ということを書いてきた。

これに対しては、“しきい値無し直線モデル”の考えから、1mSvで0.005%の将来のがん確率が上がることを持って、「どの程度であれば安全ということはない。例え僅かでも放射線を浴びることは健康に影響があるのだ」との考えであるかもしれない。

ただ、この論法を取るのであれば、そもそも1mSvであっても、安全・健康に影響が無いとは言えないはずだ。
1mSvであっても問題無いとは言えないはずだ。

原子力関係者はこれまで、1mSvという原子力施設の監視基準値を、健康には影響が無いとの説明に利用してきたはずだ。
どちらかと言うと、原発反対派が極僅かな確率の上昇をもって、危険だ危険だと言って来たのに対し、危険性を過大評価し過ぎている、現実的には無視できる数字だと説明してきたのではないか。

私としても、安全性とは、例え0.00001%でも危険性が上昇すればそれは危険だ、と言うものでは無く、この程度までなら通常の生活と変わらない、この程度になれば容認できない悪影響がある、という線引きの問題であると思ってきた。
原子力業界に関わって、防災を通して勉強する中で、そのような考えであると思ってきた。

だが、どんな僅かな線量でも健康には影響がある、例え0.005%でも上昇すれば危険性があると今になって言うのであれば、これまでの説明は何だったのか、という話になるだろう。
しきい値無し直線モデルを当てはめて、例え僅かでも安全では無いと言うのであれば、これまでの発言との整合性も問われるのではないかと思う。



最後に、またヒューマニズムとの絡みになるが、今回の辞任を受けて、「御用学者が良心に基づいて反旗を翻した」という好意的な見方がある。
だが、御用学者か/そうでないか、という、その人の属性に基づいて評価をしてしまうなら、何だって言える。

今回の小佐古先生だって、小沢系議員との連携があったわけで、その人の属性に基づいた判断をしてしまえば、管降ろしの中での策動、とも言ってしまえる。
属性に基づいて判断すれば、政府を否定すれば正しい学者、政府を否定しなければ間違った学者と、それだけにもなってしまう。


だが、そういう見方は、違うと思う。
特に専門家の話であれば、どういう理由に基づいてどういう判断をしたのか、そのこのところが問われるべきだと思う。

今回の小佐古先生が、0.005%でも0.1%でもいいから、これだけの危険性の上昇があるから1mSvでないとダメなんだ、と言うのであれば、一般の人も判断のしようがあっただろう。

他の専門家は0.1%の上昇なら安全と判断しているようだけど、自分としては0.1%は嫌だな、自主的に避難しようかなとか、0.1%なら気にしなくてもいいかなとか、単に20mSvはダメだという事だけではなくて、その理由を聞ければ、各自それぞれの判断が出来ただろうと思う。

でも、ヒューマニズムから反対だと言われては、他に健康への影響が示されていなければ、判断のしようが無いのではないか。

中身はよく分からないけど小佐古先生の言うことを信じるか/信じないか、そういう話になってしまうのではないか。
それでは、学者として、専門家として、十分な説明であると言えるのだろうか。

私には、そういったことが、疑問に思える。
甚だ生意気ではあるが。