「子供を守れ」と叫べば子供を守れるのだろうか

山本太郎佐賀県庁に突入した話。

・「子供を守れ」と叫びながら、知事への面会を要求する市民。
・それを制止しようと押しとどめる、職員・ガードマン。

こういう構図には、子供を心配する市民の思いが、子供の健康に無関心な行政によって踏みにじられる、というイメージを訴える力がある。

「子供を守れ」と叫んで相手を批判すると、自分は子供を守ろうとする正しい人、相手は子供の健康に無関心な冷血漢、という構図が自動的に出来上がるのだが、そうなのだろうか。

写真で山本太郎を押しとどめている県庁の職員。
彼らにも子供がいるはずだ。

彼ら県職員は、子供の健康に無関心な冷血漢なのだろうか。
知事や電力会社と一緒になって、子供の健康よりも私利私欲を優先させようとする、権力の側の人間なのだろうか。

彼らにも子供がいるはずで、守るべき家族を抱えている。
私に県職員の知り合いがいるから言うわけではないが、彼らだってごく普通の人間だ。
私は、彼らは彼らなりに子供や家族のことを考えていると思う。

ただ、その「子供を守る」ためのロジックや方法論が、山本太郎のそれと違っているだけで。

山本太郎は「子供を守れ」と叫ぶが、「子供を守る」という思いそれ自体は、知事とも県職員とも違いは無いはずだ。
ただ、「どうすれば子供を守れるか」という方法論が、違うに過ぎない。

山本太郎と知事・県職員の間には、「子供を守る」という思いに違いがあるのではなく、「どうすれば子供を守れるか」という方法論に違いがあるに過ぎない。

それを、「子供を守れ」と叫んで相手を批判するのは、自動的に自分は正しい人、相手は冷血漢というポジションに設定する行為であって、それは対等な交渉を求めている人間のすることとは思えない。

始めから、「自分は正しい」「相手は冷血漢」と世間にアピールすることを目的とした言葉に思える。


こういう例は、他にも沢山ある。
最近よく、「子供を守るための○○ネットワーク」といった名前を聞くようになった。
こういう名前を目にする度に、私の心で小さな疑問が動く。
大多数の人は、子供のことを考えているはずだ。
単に言葉に出していないだけで。

「子供を守るため」と掲げないからと言って、子供のことを考えていないわけじゃない。
あえて口に出すまでもなく当たり前のこと、自明のことだから、単に掲げないだけに過ぎない。

それが何か、最近は、「子供を守るため」と掲げなければ、自分の意見を言う前に「私は子供のことを考えています」とアピールしなければ、“子供の健康を考えない冷血漢”のレッテルを貼られかねない空気を感じている。


こういった空気は「子供を守る」だけでなく、「反原発」や「政府批判」でもそうだ。

原発について何か語ろうとするときには、「反原発」や「私は別に原発推進者ではない」などと断りを入れなければ、“子供の健康を踏みにじろうとする原発推進者”とレッテルを貼られかねないし、また、数値について語るときには、「政府を信じているわけではない」「政府の対策は問題がある」などと(リソースを無視した)断りを入れなければ、“政府の工作員”とのレッテルを貼られかねない。

発言をする前には、レッテルを貼ろうとする人達からの攻撃を避けるため、彼らの攻撃対象とならないように、彼らの気に障らないようなスローガンを掲げなければならない。
自分の身を守るために、そういう“アピール”をしなければならないような空気、“踏み絵を踏まされる”ような空気が、今の言論空間にはあるように感じる。

そもそも、ある特定のスローガンを掲げなければならない、ある特定の人達の気に障る存在では無いと自らアピールしなければならない、そういった“踏み絵を踏まされる”言論空間は、ある方向に行き過ぎた言論空間と言えるだろう。
今の日本の言論空間には、ややそういった、行き過ぎている部分があるように感じられる。

もし私が、「子供を守る○○ネットワーク」の意見に賛同できなければ、「子供を守る」というスローガンを掲げる団体と意見が異なるということで、私は子供を守らない冷血漢になるのだろうか。

スローガンを掲げ、スローガンを共有しない者、あるいはスローガンに異を唱える者を攻撃するのは、過去の全体主義的な社会・集団に見られた行動だ。
今ではスローガンを掲げて練り歩くことは少なくなったけれども、「子供を守る○○」というものの中に、巧妙に、反論しにくい形で隠されているように感じる。


さて、山本太郎のこと。

彼は、「子供を守れ」と叫ぶ。
何が彼をそうさせるかと言えば、言うまでもなく、放射能の問題。

確かに、放射能のリスクのみを考えるなら、彼の言っていることは正しいだろう。
世の中のリスクには放射能のリスクしか存在しないのなら、彼の言うことはもっともだ。

放射能はリスクであり、そのリスクが原発にたくさん詰まっている。
放射能のリスクを無くすためには原発を無くすべき。
その理屈は至極もっともだ。
世の中には放射能しかリスクが無いと考えるのならば。


私は(そして恐らく佐賀県知事も)、もう少し広いリスク概念を持つ。
放射能は確かにリスクだが、野菜不足や運動不足もリスクだ。
放射能を心配して野菜を控えたり運動を控えたりすれば、そちらのリスクが高まる。

特定産地の農作物が売れなくなることもリスクだ。
生産者の生活が脅かされる。生産者には子供も守るべき家族もあるだろう。

避難することもリスクだ。
避難に伴う失業・環境の変化それ自体が、避難者にとって大きなリスクになるし、大きなストレス要因にもなる。
当然、その影響は避難者の子供や家族にも及ぶ。

原発が動かないことによる、原発立地地域の経済問題もリスクだ。
原発立地地域では原発が経済の大きなウエイトを占めていることも多く、それが長期間動かないことは、地元経済に影響を与える。
これも地域の生活を脅かす。

電力供給の不安定化もリスクだ。
電力供給が不安定になれば、企業の生産活動に影響が出る。
事実、インドや中国などへの生産拠点建設にあたっては、電力の不安定さがリスク要因として、建設の判断に影響を与えている。
日本への企業進出の場合、これまでそういうリスクは無いも同然とされてきたが、これからは日本もインドや中国と同じように、電力供給の安定度が、企業にリスク要因として考えられるようになるだろう。


こういった事を書くと、「子供の命や健康の問題を、経済問題といったカネの話にするな」と批判されるかもしれない。
だが、命や健康とは、綺麗事ではなく、カネの話だ。

日本の平均寿命が長いのは、子供の死亡率が低く、栄養状態が良く、国民なら誰でも医療を受けられる社会があるからだが、これは全てカネが背景にある。
乳幼児への高度な医療も、豊かな食生活も、国民健康保険も、背後にはカネの存在がある。

近年、社会保障や健康保険という、国民の生命と健康に密接に関係するものが厳しくなっているが、それはカネが厳しいからだ。

もっとカネが無くなって、もっと厳しくなれば、途上国のように乳幼児医療も満足に出来なくなるかもしれない。

今も昔も、綺麗事じゃなく、カネと健康は密接に関係している。
ただ、見えにくくなっているだけ。気付きにくくなっているだけ。
金が無いから医者を呼べないとか、そういう衝撃的なまでに悲しい場面を見ることが無いから、気付かないだけ。

気付かないだけで、カネと健康は、密接に関係している。今でも。


山本太郎は、放射能のリスクに着目して、原発を止めろと言う。
放射能のリスクにだけ着目すれば、それは正しいだろう。

だが私は(恐らく佐賀県知事も)、もう少し広いリスク概念を持つから、それには同意できない。
生活リスク、経済リスク、そういうものも子供へのリスクだと思うから、山本太郎には同意できない。


私と(恐らく佐賀県知事も)、山本太郎の意見の違いは、「子供を守るかどうか」にあるのではない。
どうやったら子供を守れるかの、方法論にあると思っている。

「子供を守る気が無いのか」と批判されるとしたら、それは筋違いだし、反論できない「子供を守る」を錦の御旗にした、一種の恫喝のようにすら思える。