「不要な部分からセシウム出たから中止」って何なんだろう

陸前高田のマツの件の続き。
セシウムが検出された表皮を燃やした場合に、どれくらいの危険性があるかは、前回書いたとおり。
http://d.hatena.ne.jp/akatibarati/20110812/1313160548

で、自分の確認もちょっと甘かったんだが、そもそも押さえておくべき話があった。
それは、【表皮は薪に不要な部分】ということ。

マツを薪に加工する際には、表皮は取り除かれる。
実際に、始めに準備されて不検出だったマツは、薪として加工済みで、薪に不要な表皮は除かれていて、内側だけだった。
http://okuribi.hujikumi.com/pg128.html

その表皮無しの薪が京都に断られ、陸前高田で燃やされた後、批判を受けて京都市側が新たに集めたマツは、薪に不要な表皮も付いたままの未加工品。
そして、それをわざわざ、薪に必要な内側と、薪に不要な表皮を別々に検査して、薪に不要な表皮部分からセシウムが出たから使わない、と。

なんか、変な流れ。
一部で言われていることだが、まるでわざわざ、検出させるのが目的だったかのような。

また、このような報道もある。
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京都市は中止の理由について、参考にした食品衛生法に基づく食品の放射性物質の暫定規制値を検出値が上回ったことに加え、意見を求めた専門家も安全性を判断できなかったためとしている。
http://www.jiji.com/jc/zc?key=%ce%a6%c1%b0%b9%e2%c5%c4&k=201108/2011081200668
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京都市は、食品の暫定規制値を上回ったことも中止の理由の一つとしているようなんだが、検出されたのが、セシウム134が542Bq/kg、セシウム137が588Bq/kgだったことを考えると、もし仮に、“不要な”表皮も含めて検査するにしても、表皮と内側別々にではなく、一緒に一つのサンプルとして検査していれば、暫定規制値を下回った可能性は大きくなる。
その場合、今回の京都市の理由の一つは、無くなることになる。

もし仮に、マツ全体がサンプルなんだとして、基本的に表皮も内側も一体のものだと考えるのだとしたら、別々に測るのはかえって変。
マツの評価としては、表皮も内側も合わせてBq/kgと評価されるべき話で、表皮だけ抜き出してBq/kgって、サンプルの扱い方としてなんか変。

ちなみに京都市長は、【幹の部分だけを燃やすことは「議論していない」】と述べている。
http://mainichi.jp/select/science/news/20110812k0000e040090000c.html

いずれにせよ、薪に不要な表皮の部分を独立に測って、そこから検出されたから中止、という流れには、なんとも首を傾げるものがある。


繰り返しになるけど、矢印で流れを書いてみようか。


始めの薪が準備される
薪に不要な表皮は取り除き済みで、内側のみ
Ge半導体検出器による分析(精密分析)の結果、セシウム不検出

放射能を不安視する意見により、保存会に断られる

始めの薪は、陸前高田で燃やされる

批判を受けた保存会・京都市、再び薪の受入れを決める

新たに集めたマツは未加工品で、薪に不要な表皮も付いたまま

薪に必要な内側と、薪に不要な表皮を別々に検査

薪に不要な表皮からセシウムが出て、再び中止を決める


何なんだろう、この流れは。
右往左往感があるのはもちろんなんだが、それ以上に、『薪に必要な内側と不要な表皮を別々に検査した』のは謎だし、『薪に不要な表皮からセシウムが出たから再び中止』というのはもっと謎。

こういう『謎検査』の結果、暫定基準値を超える値が検出されて、検出されたから危険性の評価もそこそこに中止で、と言うかそもそも、【幹の部分だけを燃やすことは議論されてもいなかった】と。

何なんだろうこの流れは。
首を傾げるばかりなんだが。

そもそも、表皮と内側を分けて分析しようとか、そんな『謎検査』を、素人が考え付くもんかね。
普通に考えれば、表皮を含めて分析するにしても、表皮も内側も一体として分析すると思うのだが。
ちょっと、素人では考え付かないような気がするんだが。



長くなってしまうんだが、この問題を巡る論点には、他にも色々とおかしいものがある。

中止を支持する意見の中には、

・東北のマツを京都で燃やすなんて、大文字焼きの意味や伝統を理解していない
・始めに準備された薪は、護摩木の規格に沿わない間違ったもの

といった主張もあるが、

大文字焼きの意味や伝統を言うなら、そもそも受入れを決めた保存会の判断がおかしかったことになるし、
護摩木の規格を云々するなら、表皮付きのマツを準備した保存会・京都市の対応もおかしかったことになる。

いや、表皮はこれから取り除いて護摩木に加工する予定だったんだと言うならば、じゃあ取り除かれる部分から検出されたから中止って何なんだ、ってことにもなる。

発起人の問題をクローズアップして判断の問題に触れない意見にも感じるんだが、とかく中止を支持する意見には、場当たり的というか、その場しのぎというか、論理的な一貫性に欠けるものが多い。

上に書いたように、中止を支持する主張と保存会の行動に、既に矛盾が生じているし。


まぁね、ここまで色々と、保存会や京都市の問題について書いておいて何なんだが、自分としては、保存会や京都市がある程度右往左往するのはしょうがないと思っている。
こういう団体は批判や反対意見に弱いしね。
市だって、事務局をやっているとは言え、最終判断は地元の役員なんだから、口を挟めない部分はあるだろう。
そういったことを考えれば、右往左往するのはしょうがない。

もちろんこれは「しょうがなかったよね」と言いたいわけでは無いんだけど、まぁそういう行動になってしまう背景については理解できる部分もある、ということ。
理解できるからそれで問題が消えるわけでは無いけど、「すいません」となれば、あまり追求する人もいないんじゃ無かろうか。


自分的にむしろ問題を感じるのは、そういう、矛盾を抱えた擁護にもならないその場しのぎの擁護を繰り返して、問題点をはぐらかす行為。

「京都人」として批判されるのは嫌だろうけど、正直、京都の人の多くが今回の結果を支持しているとは思いたくないんだよね。
こんなこと書いてる自分としても。
それなのに、問題点がはぐらかされる、擁護にもならない擁護が繰り返されているのを目にすると、むしろそっちの方を残念に思う。

擁護にもならないような「大文字焼きの意味や伝統」とか「護摩木の規格」を言って被災地を攻撃している意見も多く目にするけど、京都のイメージを考えるなら、そんなの逆効果だと思うけどね。
そんなこと言うから、「じゃあ決めたのは誰なんだよ」と言いたくなるんだよ。

放射能汚染を拡げるな!」みたいな抗議を、被災地に対して行っているバカもいるみたいだけど、違うだろって。
被災地が無理矢理、嫌がる京都の首を縦に振らせてマツを持ち込んだのか?
違うだろ。

そういう環境テロ団体みたいな、科学的根拠よりも自分の感情を優先させるような、そういう過剰な反応が、無意味な対立を生んでるんだろって。


ちなみに、当事者である「京都五山送り火連合会」がなんて言ってるか、確認してみようか。

陸前高田の薪に人々の祈願や鎮魂の意を託し、五山の山々でたきあげたい』

『大文字の取り組みは送り火の趣旨に沿ったすばらしいこととほかの四山は感じていた。変更を余儀なくされ、残念な結果になった』

という談話を出してるんだけど。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news/20110811-OYT8T01201.htm

「意味や伝統を理解していない」とか「規格に沿わない」と批判する人は、こういう考えの送り火連合会の考えそのものが、間違っていたとでも言うのかな。

送り火の当事者の気持ちを無視してまで、被災地を批判することが正しいとでも思うのかな。

どうにも、自分の感情を正当化するために、被災地批判にまで繋げているように思えるのだがねぇ。