ゼロベクレルという幻想(ストロンチウム騒動に絡んで)

少し前の話になるが、昨年末のストロンチウム騒動と絡めて、思ったことを。
騒動を簡単に振り返ると、こういう感じになる。

・横浜の堆積物から、福島原発由来のストロンチウムが検出された、と市民団体が発表(分析は民間分析会社)
横浜市が堆積物を再検査し、やはり原発由来のストロンチウムが検出されたと発表(同じ民間分析会社)
文科省が横浜の堆積物と土壌で放射化学分析を実施。原発由来を示すストロンチウム89は検出されず。ストロンチウム90も微量(日本分析センターによる放射化学分析

・その後、東京都が発表した、3月15日の東京都内の大気浮遊塵分析結果で、ストロンチウム89の検出があったことが確認される(日本分析センターによる放射化学分析

この横浜市における一連の騒動について、私が書いてきたことの要点をまとめると以下のとおり。

・比べられないサンプルを比べている
福島の数字は土壌の数字であるのに対し、横浜の数字は堆積物の数字。置かれていた状況が全く違うサンプルを比較している。市民団体・民間分析会社・横浜市は、比べられないサンプルを比べて原発由来と言ってしまっている。

・分析方法が不適当
原発由来かどうかを考えたいのなら、放射化学分析を行って短半減期であるストロンチウム89を調べるべきなのに、それをしていない。
堆積物の、しかもストロンチウム90が含まれるような分析で、原発由来かどうかは判断できない。

・そもそも微量なので心配はいらない
横浜市で発表された数字が仮に原発由来であったとしても、そもそも微量なので、健康への心配をするようなものではない。


その後、文科省(日本分析センター)が放射化学分析を行った結果からは、横浜のサンプルからはストロンチウム89は検出されず、ストロンチウム90も微量であったこと、つまり、横浜の市民団体などは、原発由来とは判断できない方法で原発由来と言っていた事が示された。

そしてその後、東京都(日本分析センター)の分析結果により、3月15日には東京にも原発由来のストロンチウムが達していたことが確認された。
(ただし、達していたとは言ってもごく微量であり、健康への心配が要らないことには変わりない)

原発由来かどうか、それを判断するには文科省・東京都・日本分析センターのような方法を採るべきであり、市民団体・横浜市・民間分析会社のやり方は全く不適当であったと言える。


ところで、私はストロンチウム騒動の当初、このような趣旨のことを書いている。
「横浜に原発由来のストロンチウムが全く無かったとまでは言わない。ひょっとしたら、100ベクレルのうち1ベクレルくらいは原発由来かもしれない。ただ、いずれにしても横浜のやり方では原発由来とは判断できない」

実際のところ、この文言が含む意味は簡単ではない。書き出すと長くなってしまう。
長くなってしまうからこそ、当時はこのような書き方でサラっと書くだけに留めていたのだが、東京でストロンチウム89が検出されたことでもあるし、また「検出」とか「不検出」をより理解できることにもなるので、今回、この文言の意味するところを書いてみたいと思う。

先に結論を書いてしまうと、「ゼロベクレルなど幻想」ということになる。
そして、これがこのエントリで書きたかった本題になる(長い前置き)。


そもそも「検出」とは何だろうか。
簡単なように思えて、考え出すと簡単ではない。
単純なイメージとしては、「あるサンプルの中から、特定の物質を見つけ出すこと」ということになるだろうか。

例えば、ある土のサンプルから、プルトニウムが「検出」されたとする。
このとき、「プルトニウムがあった」と言うことは、基本的には正しいだろう。
では、プルトニウムが「不検出」だったとき。
プルトニウムが無かった」と言うことは正しいだろうか。
これは正しくない。不検出であったとしても、「無かった」とは言えない。
これはどういうことか。具体的な数字で考えてみる。

土壌中のプルトニウム239を例に考えてみる。
(実際的にはPu239+240になるが、話が複雑になるのでPu239のみとして考える)

土壌中のプルトニウムの分析目標値(≒検出下限値)は、一例として0.04Bq/kgとされている。
“検出下限値”と言えば、一部では
「検出下限値未満の放射能は検出されないなんて酷すぎる」「ゼロベクレルとは言えない」
などと批判されるわけだが、これはまさしくそういう数字だ。
検出下限値未満の放射能は検出されないし(=不検出)、当然、不検出だからといってゼロベクレルでは全く無い。

この辺を、もう少し具体的な数字で見てみる。
土壌のプルトニウムの検出下限値が0.04Bq/kgであるとして、ここでBq(ベクレル)という単位は、1秒間に原子が壊れて放射線を出す件数のことだから、0.04Bqであれば1秒間に0.04個のプルトニウムが壊れて放射線を出すこと意味する。
ただ、“0.04個のプルトニウム”と言っても分かりにくいから、言い換えると、25秒間に1つのプルトニウム原子が壊れて放射線を出すのと同じ。
これが0.04Bqと言うことになる。

ところで、プルトニウム239の半減期は24000年以上。
つまりプルトニウム239が100個あったとして、それが壊れて半分の50個になるのに24000年以上かかるわけだから、(あまり良くは無いが)単純平均してしまうと、1つ壊れるのに480年ということになる。
0.04Bqで25秒間に1つ壊れるとしたら、逆に言えば、そこに存在するプルトニウムの個数自体はもの凄く多いことになる。

そこで、プルトニウム239が0.04Bqだったときの原子の個数を計算すると、細かい計算過程は省くが、約43,900,000,000個(=439億個)ということになる。

1kgの土の中にプルトニウム原子が439億個あって、ようやく検出できるレベルの0.04Bqに達する。
原子の数という視点で考えれば、そういう話になる。

もしプルトニウムが100億個であれば0.01Bq程度、200億個であれば0.02Bq程度となるが、これでは検出できない。
つまり、1kgの土の中にプルトニウム239が100億個や200億個あったとしても、今の分析技術では見つけられない。
つまり「不検出」となる。


プルトニウムが200億個あっても見つけられないなんて、一体何をやっているんだ!」
世の中には、こういう反応を示す人もいるかもしれない。
でもそれは、「何百億」という、単に大きく見えるだけの数字に反発しているに過ぎない。

なぜなら、例えばプルトニウム239が200億個あったとして、それをグラムに直せば0.000000000008グラムに過ぎないから。
ようやく検出できるようになる、0.04Bq相当の439億個であっても、0.000000000017グラム。

プルトニウムが何百億個、と言うのは、原子の世界の話になるからそういう数字になるのであって、「見つけられないなんて、一体何をやっているんだ!」と言う人がいるとしたら、それは単に表面的な数字で驚いているに過ぎない。


さて、話が少し横道にそれたが、私はこれまでに度々、
プルトニウムストロンチウムなんてその辺にある。あなたの家の庭だって、測れば出ても不思議はない」
ということを書いてきた。
過去の核実験などにより、こういった物質は世界中に散らばっている。

事実、プルトニウムはこれまでにも、日本全国で検出されている。
例えば、長野県や熊本県では5Bq/kgや3Bq/kgという数字が確認されている。
この数字をプルトニウム原子の個数で表せば、5兆個や3兆個といった数字になる(Pu239換算)。
もちろんこれは、原発事故が起きる前の数字。

原発事故とは関係無く、このときの土壌1kgの中には、プルトニウムが何兆個も含まれていたことになる。
もちろんこれは長野や熊本に限った話ではなく、日本全国どこでも同じ話で、土壌1キログラムの中には、数兆・数千億・数百億個のプルトニウムが含まれている。

地面に触って、手に1グラムの土が付いたら、その中にはプルトニウムが数千万〜数十億個含まれていてもおかしくはない。

「あなたの家の庭だって、測れば出ても不思議はない」と書いたのは、そういうこと。
既に世界中、日本中の土に、大なり小なりプルトニウムは含まれている。
サンプルの中に、プルトニウムが439億個以上含まれていれば「検出」となるだろうし、200億個くらいしか含まれていなければ、「不検出」となる。

ただ、ここまでの説明で分かるとおり、「不検出」であったとしても、それは「ゼロ」を意味しない。
今の分析技術では見つけられるレベルに無かった、というだけであって、見つけられなかったからと言って、それはゼロを意味しない。

これはプルトニウムだけでなく、セシウムでもストロンチウムでも同じ。
例えば分かりやすいように、どちらも土壌の検出下限値が0.1Bq/kgだったとしよう。
検出下限値が0.1Bqともなれば、相当な時間や手間をかけて分析しないと得られない値だが、それでも、セシウム137もストロンチウム90も、1億3000万個くらいは必要になる。
検出下限値が0.1Bqという、相当手間のかかる分析を行ったとしても、5000万個くらいでは見つけられない。
「不検出」となる。

100億個のプルトニウム239も、5000万個のセシウム137も、そして5000万個のストロンチウム90も、分析結果は「不検出」となるが、放射能はゼロではない。
100億個のプルトニウム239は0.01Bq相当だし、5000万個のセシウム137・ストロンチウム90は0.04Bq相当だ。
もちろん、プルトニウムが1億個でも、セシウムが100万個でも、それに応じたベクレルは存在する。

例え分析結果は不検出でも、0.01Bqのプルトニウム239(約100億個)からは100秒に1回α線が出るし、0.04Bqのセシウム137(約5000万個)からは25秒に1回γ線が、0.04Bqのストロンチウム90(約5000万個)からは25秒に1回β線が出る。

例えどんなに少なくても、例え不検出になったとしても、原子がゼロで無い限り、そこにベクレルは存在するし、そこから放射線は出る。


「ゼロベクレル」という言葉があり、「放射能が少しでもある限り危険だ」という人がいる。
ここで見てきたとおり、「不検出」はゼロではない。
今の分析技術では見つけられなかった、との意味に過ぎない。
ゼロベクレルにしたい、放射能をゼロにしたいと思うなら、それはプルトニウムストロンチウムが原子レベルでゼロであることを確認しないとならない。
土壌1kgの中に、プルトニウム239やストロンチウム90が、原子レベルで1個も無いことを確認しないとならない。

しかし、そんなことは不可能だ。
プルトニウムストロンチウムが原子レベルで1個も無いことを確認できる、実用的な分析技術なんてこの地球上には無いし、近い将来実用化される見込みも無い。
「ゼロベクレル」なんてものは、あくまで理論上、概念上の世界にしか存在しないものであり、現実世界では幻想に過ぎない。

「少しでも放射能があると危険だ」と、他人の不安を煽る声があるが、そのような声で他人を不安にさせられるなら、これから先の何十年も、他人の不安を煽り続けることが可能だろう。
なぜならば、ゼロベクレルなど現実的には幻想に過ぎないからだ。


もちろん、プルトニウム239が100億個あるからと言って、セシウム137やストロンチウム90が5000万個あるからと言って、それが危険ということにはならない。
100億個や5000万個とは言っても、ベクレルに換算すれば0.01Bqや0.04Bq程度に過ぎない。
これらが体に入れば、α・β・γといった放射線が体内で放出されることにはなるが、例えこれらが体に入っても問題は無い。安全だ。
なぜならば、放射線が放出されるのは事実であっても、その量や程度が小さいから。
安全と言えるのは、その量や程度が小さいからであり、決して「ゼロだから」でも「不検出だから」でも無い。

一方で、プルトニウムが100億個、ストロンチウムが5000万個と言われると、不安になってしまう人もいる。
「少しでも放射能があると危険」と言われると、不安になってしまう人がいる。
これらは、実際に放射能が危険なレベルにあるから不安になるのではない。
「100億」とか「5000万」とか、あるいは「プルトニウム」とか「ストロンチウム」とか、そういう文字を見て、不安になってしまうのであって。

安全なものなのに、100億個とか5000万個とか、そういう文字を見ると不安になってしまう。
「安全」と「安心」は別物とは、そういうことを意味している。



さて、話をストロンチウム騒動に戻す。
繰り返すが、私はこの騒動の当初、このような趣旨のことを書いている。
「横浜に原発由来のストロンチウムが全く無かったとまでは言わない。ひょっとしたら、100ベクレルのうち1ベクレルくらいは原発由来かもしれない。ただ、いずれにしても横浜のやり方では原発由来とは判断できない」

放射能に色は着いていないから、仮にストロンチウム90が検出されたとしても、それが核実験由来なのか原発由来なのか、それだけでは区別できないし、仮にストロンチウム89が不検出であったとしても、それがゼロであったことは意味しない。

だから、ストロンチウム90が100ベクレルあったとして、ひょっとしたら1ベクレルくらいは原発由来なのかもしれないし、ストロンチウム89が不検出であったとしても、ひょっとしたら検出下限値未満のものはあったのかもしれない。

ただ、繰り返すが放射能に色は着いていない。
「かもしれない」という話はあくまで「かもしれない」でしかない。
「かもしれない」だけなら何とでも言える。
何かをハッキリと言うからには、そうと言えるだけの根拠が必要だ。
それが、放射能であれば「信頼の置けるレベルの分析結果」ということになる。

原発由来かどうか。
それを考えたいのなら、比較するサンプルの条件を整えることが必要だし、あるいは短半減期核種を捉える意味で、ストロンチウム89を分析することが必要だった。
横浜側はそれをしなかったが、東京側は行った。
その結果として、東京に原発由来ストロンチウムが届いていたことが確認された。
今回の話は、そういうことになる。

もちろん、東京に届いていたとは言っても、ごく微量で心配する必要は無いし、仮に不検出であったとしても、それがゼロであることは意味しない。
当然、東京以外で分析して不検出であったとしても、もちろんゼロであったことは意味しない。
ひょっとしたら、検出できないレベルのストロンチウム89は飛んできていたの「かもしれない」。

ただ、重要なのは、何かをハッキリと言うからにはそう言えるだけのキチンとした根拠が必要で、そしてその量がどの程度であったかを評価することが重要だということ。
「ゼロか/ゼロでないか」は重要ではないし、むしろ、ゼロを追い求めることは不毛だし、現実的には無意味だし、何より不可能なこと。
東京で微量のストロンチウム89が検出されて、原発由来のストロンチウムが“ゼロではなかったことが確認された”からといって、心配するような話では無いということ。
なぜならば、量としては微量に過ぎないから。


さて、今回は特に長くなってしまったので、以下は余談も兼ねての締めくくり。

これまで、不検出とは“今の分析技術では見つけられない”趣旨だと書いた。
これは逆に言えば、今後分析技術が進歩すれば、より小さい数字まで見つけられるようになることを意味するし、事実そうだ。
分析技術の進歩に伴って、昔は見つけられなかったレベルまで見つけることが出来るようになっている。

プルトニウムで言えば、今は0.00001Bq/kgといった数字を検出することは難しいが、未来の世界では容易に検出できるようになるかもしれない。
このとき、例えば0.00005Bq/kgというサンプルは、今は「不検出」だが、将来的には「検出された」と発表されることになるだろう。

では、このプルトニウムが「検出された」サンプルは、危険なのだろうか。
今は「不検出」だから安全と思われているサンプルが、将来技術の進歩で「検出」されるようになったら、危険なものに変わるのだろうか。

サンプル自体は変わらなくても、分析技術が進歩したら、安全なものから危険なものに変わるのだろうか。

「検出/不検出」と「危険/安全」とは関係が無いし、そもそも、ゼロベクレルというもが幻想の世界の産物。
「検出と危険」を結び付け、検出されたから危険と考える人をしばしば目にするが、これまで書いてきたとおり、そのような関係は成り立たない。
検出されたから危険だとか、不検出だったからゼロだとか、そういうものでは全く無い。

「検出=危険」と考え、何かが検出されるたびに危険を叫ぶ人もいるが、そのような声は「安全とは何か」という議論に基づいてはいない。
単に、「検出」という単語に感情的に反応しているに過ぎない。

「検出」されれば危険なら、分析技術が進歩すればするほど、危険なものが増えることになってしまう。
大切なのはその量がどれくらいかであって、何かが検出されるたびに不安になる必要は、全く無い。