「内部留保から賃上げへ」は本当に無理なのか?

最近の内部留保を巡る議論には混乱を感じる。

内部留保から賃上げへ」に対する反論の多くは、「内部留保は現預金で保管されているのではなく、土地や建物、設備になっているのだから、内部留保での賃上は困難だ」と主張するのだが、では内部留保によって生産設備がどの程度増えていて、賃金化できる資産はこれくらいしかないから賃上げは困難だ、と具体的な数字で説明する意見には巡り合えないからだ。
多くが、バランスシートの科目の、言葉の説明で終わってしまう。

そこで、無いなら仕方がないので、自分で数字を探してまとめることにした。
以下の表は財務省の法人企業統計を用い、拾える最新の数字である2013年度から、とりあえず過去15年間と言うことで1999年度までのバランスシートの変化を表したものだ。

なお、科目は沢山あるので、内部留保を巡る議論に便利なように科目を適宜整理し、以降の説明で特に触れる科目にはオレンジの網掛けをした。


(1)内部留保とは(ストックの内部留保とフローの内部留保

まず最初に、「内部留保から賃上げへ」で言うところの内部留保とは、バランスシートでは右下、純資産の中の「利益剰余金」を指すことが多い(ストックの内部留保)。

利益剰余金とは以下のように説明される。

「企業が生み出した利益を積み立てたお金で、会社内部に蓄積されているもの」
https://www.smbcnikko.co.jp/terms/japan/ri/J0547.html

これが1999〜2013年度の間に倍以上、170.9兆円も増えており、“企業は利益を溜め込み過ぎ”と言われる元となっている。

なおここで「ストックの内部留保」と「フローの内部留保」と分けて書いているのには理由がある。
利益剰余金が内部留保だと言われるのは、ストックを表したバランスシートの中で内部留保を探すとしたら、という話であって、内部留保にはストック(これまでの積み上げ)の他にもフロー(毎年発生する分)の内部留保もあり、フローの内部留保で賃上げをという意見もある。
この「ストック」と「フロー」の違いも、内部留保を巡る議論を混乱させているので、後に再度触れたい。


(2)利益剰余金の言葉の説明だけでは不充分

内部留保から賃上げへ」に対する批判の多くは、この利益剰余金の言葉の説明に多くを費やす(と言うか言葉を説明して終わるだけのものも多い)。
中でも特徴的なのは、利益剰余金(内部留保)の中には積立義務のある利益準備金などが含まれるから、内部留保で賃上げするのは困難だ、といった説明だが、上の表を見て分かる通り、利益準備金は2.1兆円しか増えていない。
170.9兆円の利益剰余金の増加のうち2.1兆円なので、構成比にして1.2%ほどを占めるに過ぎない。
確かに積立義務があるとは言え、僅か2.1兆円(1.2%)の増分で、170兆円超の内部留保の性格を限定するのは行き過ぎだろう。
むしろ、170兆円の増加の大部分は、使途が比較的自由な繰越利益剰余金(135.4兆円)が占めている。
内部留保を巡る議論は、むしろこの辺りを考えることが重要だろう。


(3)内部留保の行き先は?

利益剰余金の行き先を考えることは確かに難しい。
その説明としては、表の左側、資産の部、これらを資産形成した元となっているのが右側の負債・純資産なのだが、お金にひもづけはされていないので、増加した内部留保が左側の資産のどこに使われているか分からない、というものだ。
このエントリの最初の方で書いた「内部留保は設備投資にも使われているから換金は難しい」とする主張もここから来ている。
確かに話としてはその通りではあるのだが、この表を見れば、明確な方向性が現れていることに気付く。


(4)内部留保は設備投資に使われているから換金は難しい?

設備投資の結果は、上の表で言えば左側資産の部の、有形・無形固定資産に現れる。
(元データは有形固定資産、無形固定資産となっているが、分かりやすいように合算して表している)
この有形・無形固定資産には、土地・建物・機械に加え、知的財産権やソフトウェア等といった生産資産が含まれているので、内部留保の増加に見合った活発な設備投資が行われていれば、ここが増えているはず。
ところが増えていない。
むしろ減っている。
内部留保は170.9兆円増えているのに、生産設備はむしろ36兆円のマイナスとなっている。

確かに、お金にひもづけはされていない。
だが右側の純資産で、内部留保(利益剰余金)が170兆円以上も増えているときに、その運用先である左側の資産で、生産設備関連が36兆円も減るということがあり得るのだろうか。
これはむしろ、内部留保の増加は設備投資にはそれほど結びついていない、と考えるのが自然だろう。
少なくとも内部留保の運用先や換金の難しさを説明するにあたって、生産設備を持ち出すのはミスリードではないかと思う。


(5)「投資その他の資産」の著しい増加

170兆円以上増加した内部留保(利益剰余金)の運用先として、設備投資よりも自然なのが199.8兆円増加している「投資その他の資産」だ。
「投資その他の資産」とは、以下のように説明される。

貸借対照表の借方の資産の部、固定資産のひとつ。株式配当や預金利息など、企業が利殖を目的として投資をした長期資金のことで、投資有価証券、長期貸付金などが含まれる。」
https://www.nomura.co.jp/terms/japan/to/toushi_sonota.html

「大きく分けて、他の企業への資本参加を目的とする投資、長期の資産運用(利殖)を目的とする投資、その他の長期の資産の3つがあり、具体的には、投資有価証券、長期貸付金、長期預金、長期前払費用、出資金などがある。」
http://www.ifinance.ne.jp/glossary/account/acc075.html

「投資その他の資産」が199.8兆円増えており、中でも株や公社債といった有価証券が170.4兆円増えている。
ではそれらの原資として何が考えられるかと右側の負債・純資産の部を見れば、負債は逆に45.1兆円減少しており、これら百数十兆円に及ぶ株や公社債などの原資になったとは考えにくい。
百数十兆円を超えるこれら有価証券の原資は、同じく百数十兆円の増加となっている利益剰余金や繰越利益剰余金であったと考えるのが自然だろう。

上の言葉の説明で見たとおり、「投資その他の資産」に計上されている株や公社債には、長期の利殖目的の他にも子会社や関連会社への出資が含まれており、真に必要性の高い株式取得等も確かに相当程度あるだろう。
しかし例えば投資有価証券では1999〜2013年度の間に、87.8兆円から258.2兆円へと3倍近くになり、170.4兆円増加している。
この中には利殖目的の高い投資も相当程度あるのではないか。
残念ながらこの法人企業統計からはそこまでは追えないが、経団連などの企業団体が「内部留保での賃上げは困難」との主張に説得力を持たせたいなら、この「投資その他の資産」中のどの程度が真に必要な出資なのか、あるいは利殖目的ではないのか、ある程度具体的な数字で説明することが求められるのではないだろか。

ちなみに、子会社や関連会社への出資であっても、「配当」や「持分法による投資益」という形で、投資側に収益が発生していることは指摘しておきたい。

※日本のGDPの過半数個人消費であり、個人消費が増えねば景気は良くならない。もし子会社などを管理するために1999年度の3倍以上、170兆円もの資金が必要で、その分が賃金に流れず景気を冷え込ませているとしたら、そのような会社分割や株式持ち合いにどのような意味があるのだろうか?


(6)現金・預金は重要か?

内部留保を巡る議論では現預金が注目されることが多く、だいたいは「現預金も増えてはいるが経営資金として必要なので、賃金に回すことは難しい」との説明になる。
ただ、ここで考えたいのは、使う当てのない多額の資金があれば、現金・預金で保管しておくよりも株や国債などの金融投資に回すはずだということ。
その方が収益性が高いし、これは企業に限らず富裕層といった個人レベルでも同じ。
当面使う当てのない余裕資金があれば、現金・預金で抱えるよりも普通は金融投資に回す。
企業も同じで、余裕資金があるのなら、当面必要そうな運転資金を残して、金融投資に回すだろう。
その意味では内部留保の話では現預金をあまり重視する必要性はないし、あまり重視しすぎるのはかえってミスリードを招く。
余裕資金の行き先として着目すべきなのは、現預金よりもむしろ「投資その他の資産(あるいは投資有価証券)」なのだから。


(7)「ストックの内部留保」と「フローの内部留保

(1)で触れたが、内部留保と言えばバランスシート上の利益剰余金(ストックの内部留保)のみを指す説明も多いが、内部留保には毎年発生するフローの内部留保もあるのだから、きちんと整理して考えることが必要だろう。
1999〜2013年度で170.9兆円の利益剰余金が増加したということは、単純計算では毎年11.4兆円の増加が発生していたことになる。
この毎年発生する留保利益、つまりフローの内部留保を賃上げに活用しようという議論も当然成り立ち得る。
どこにも分配しない利益を社内に残して、利殖を目的とした株や公社債を買う金があるのなら、賃金として分配して個人消費を活性化させる。それでこそ日本経済に需要が増え、企業の経営環境も改善し、将来的な企業利益の増加に繋がるのでは、ということだ。

内部留保の話になると、ストックの内部留保の話ばかりしてそれで終わり、といった議論もよく見かけるが、それでは議論として不充分であることを指摘しておきたい。
ストックの内部留保は、フローの内部留保が蓄積された結果なのだから。
貯金箱の中の話ばかりして、毎年発生している余裕資金には目を向けないというのは、資金活用の議論としてはおかしいだろう。


(8)まとめ

このエントリの締めくくりとして、ここまで書いてきたことをまとめておきたい。

内部留保と賃上げの話になると、ストックの内部留保(利益剰余金)の言葉の説明だけして終り、という議論があるが、それでは不充分。
・特に利益準備金の積立義務などを理由として賃金化は困難とする説明もあるが、利益準備金の存在はとても小さい(1.2%)。言葉だけの説明ではなく、やはり個々の金額を確認するアプローチが必要。
・お金にひもづけはされていないが、企業の生産設備は減っている(設備投資は増えてない)。「内部留保は設備投資に使われているから換金は難しい」との説明に説得力はない。むしろミスリード
・生産設備が減っているのに比べ、株や公社債といった「投資その他の資産」「投資有価証券」は百数十兆円の規模で増えている。この科目には利殖を目的とした投資や子会社・関連会社への投資などが混在するが、法人企業統計から内訳を追うのは困難。
・とはいえ1999年度から3倍、170兆円以上も増えている。真に必要な投資ばかりで賃上げが困難なら、企業団体側が数字的根拠をもってその理由を(利殖に回しているのではないと)説明できないと説得力がない。
内部留保の議論で現預金の話はあまり意味がない。余裕資金があれば金融資産に回すのが当然。
・ストックの内部留保とフローの内部留保を整理して考えるべき。貯金箱の話ばかりで毎年発生する余裕資金に目を向けないのは不適当。


※つけたし
だいたい書いたと思うので、あとはつけたし。

内部留保金額を母集団の企業数で割って「1社当りにすればこれくらいしかない。これでは賃上げは困難」とする説明もあるが、内部留保と賃上げの話は「賃上げ余力を持つ企業は賃上げを」という話なのだから、赤字企業まで含めた母集団数で頭割りするのは不適切。このような手法は、賃金を全労働者数で割って1人当たり平均は400万、消費余力のある高所得者はいない、と言うようなもの。

内部留保の増加は中小企業よりも大企業が大きい。これは中小企業には赤字企業が多いことによると思われるが、とは言え中小企業に賃上げ余力が少ないとは断言しにくい。中小企業は大企業に比べ、黒字化するインセンティブが乏しい。有体に言えば、利益が出そうになったら経費を増やして利益を圧縮する・赤字にするという行為が行われやすい。例えば高級車を会社名義で買って経費計上して利益圧縮するが、その高級車は実質経営者の自家用車になる、というもの。一般的に言って中小企業は大企業に比べ苦しいというのはそうだろうが、経営実態の信用性は中小企業は大企業に比べ乏しいと思う。

(追記)政治は企業経営に口出ししてはいけないか?
・企業側も政府に対し、企業減税をしてほしい、労働規制を緩和してほしいといった要求をしてきている(政治に口出しをしている)。双方が双方に望むところを伝えるのは妨げられることではないので、企業側しか要求できない、という主張はおかしい。

・これまでにも企業が苦しい時期には、エコカー補助金や家電・住宅購入への助成など、政府によって企業救済が行われてきた。経済は市場の成り行きに任せて政治は経済に関与するなと言うなら、この時も経済界から大きな批判が巻き起こってしかるべきだったが、そのような批判は無かった。むしろ経済界は喜んでこれら政府の経済への関与を受け入れた。「政治は経済に関与するな」という主張を自分の都合で出したり引っこめたりするのはおかしなことだと思う。

GDPの最大の構成要素が家計消費であり、賃金がその消費力に影響する(つまりGDPに大きく影響する)ものである以上、賃金への波及を望むのは、GDP上昇を望むなら等しいところと思う。企業はこれまで、経済対策や減税によって支えられてきているのだから、賃金引上げ余力がある企業はそれを賃金へも回して家計の購買余力を増やして欲しいと言うのは、マクロ経済を預かる政治として当然のことと思う。これは経済環境の好転となって、企業にも恩恵をもたらす。

・と言うか家計消費が盛り上がってこない限り景気は好転しないから、企業投資も回復しないし労働市場の逼迫も起こらない。経済の自律的な好循環や、企業の経営環境の改善を望めばこそ、賃金の上昇が不可欠となる。

・政治は経済の制度設計でそれを果たすべき、というのは理屈としてはその通りだとは思う。ただ、実際問題として家計の消費力の多くは、企業を通して賃金として流れていくのも事実であり、せっかく経済対策を行ってもお金が企業止まりで家計へと流れて行かないのでは効果が薄い。企業の意志に頼らず家計の購買力を増やす方策としては、あとは直接給付(例:子ども手当)や法律化といったことも考えられるが、果たしてどうか。それよりも、政治が口で言うだけで家計購買力への波及が果たせるなら、政治的コストとしてはリーズナブルだと思う。

内部留保と賃金上昇の関係を否定するなら、バランスシートの言葉の説明や「政治は経済に関与するな」といったべき論でなく、なるべく数字で語って欲しい。具体的に投資有価証券170兆円超のうち○○兆円は○○といった理由で賃金化はできないし、フローの内部留保からも○○という理由で賃金には回せないと。それでこそ説得力があるし、生産的な議論にもなる。数字を伴わない言葉の話だけでは説得力に乏しい。

(参考)企業を含む日本一国規模の資金状況をマクロ的につかむものとして、GDP統計を用いた貯蓄投資バランスがある。
近年は企業部門が過剰貯蓄の主体となっているのは、貯蓄投資バランスにも現れている。
日本の貯蓄・投資バランス(平成24年度版)
http://d.hatena.ne.jp/akatibarati/20141130/1417355683