ゼロベクレルという幻想(ストロンチウム騒動に絡んで)

少し前の話になるが、昨年末のストロンチウム騒動と絡めて、思ったことを。
騒動を簡単に振り返ると、こういう感じになる。

・横浜の堆積物から、福島原発由来のストロンチウムが検出された、と市民団体が発表(分析は民間分析会社)
横浜市が堆積物を再検査し、やはり原発由来のストロンチウムが検出されたと発表(同じ民間分析会社)
文科省が横浜の堆積物と土壌で放射化学分析を実施。原発由来を示すストロンチウム89は検出されず。ストロンチウム90も微量(日本分析センターによる放射化学分析

・その後、東京都が発表した、3月15日の東京都内の大気浮遊塵分析結果で、ストロンチウム89の検出があったことが確認される(日本分析センターによる放射化学分析

この横浜市における一連の騒動について、私が書いてきたことの要点をまとめると以下のとおり。

・比べられないサンプルを比べている
福島の数字は土壌の数字であるのに対し、横浜の数字は堆積物の数字。置かれていた状況が全く違うサンプルを比較している。市民団体・民間分析会社・横浜市は、比べられないサンプルを比べて原発由来と言ってしまっている。

・分析方法が不適当
原発由来かどうかを考えたいのなら、放射化学分析を行って短半減期であるストロンチウム89を調べるべきなのに、それをしていない。
堆積物の、しかもストロンチウム90が含まれるような分析で、原発由来かどうかは判断できない。

・そもそも微量なので心配はいらない
横浜市で発表された数字が仮に原発由来であったとしても、そもそも微量なので、健康への心配をするようなものではない。


その後、文科省(日本分析センター)が放射化学分析を行った結果からは、横浜のサンプルからはストロンチウム89は検出されず、ストロンチウム90も微量であったこと、つまり、横浜の市民団体などは、原発由来とは判断できない方法で原発由来と言っていた事が示された。

そしてその後、東京都(日本分析センター)の分析結果により、3月15日には東京にも原発由来のストロンチウムが達していたことが確認された。
(ただし、達していたとは言ってもごく微量であり、健康への心配が要らないことには変わりない)

原発由来かどうか、それを判断するには文科省・東京都・日本分析センターのような方法を採るべきであり、市民団体・横浜市・民間分析会社のやり方は全く不適当であったと言える。


ところで、私はストロンチウム騒動の当初、このような趣旨のことを書いている。
「横浜に原発由来のストロンチウムが全く無かったとまでは言わない。ひょっとしたら、100ベクレルのうち1ベクレルくらいは原発由来かもしれない。ただ、いずれにしても横浜のやり方では原発由来とは判断できない」

実際のところ、この文言が含む意味は簡単ではない。書き出すと長くなってしまう。
長くなってしまうからこそ、当時はこのような書き方でサラっと書くだけに留めていたのだが、東京でストロンチウム89が検出されたことでもあるし、また「検出」とか「不検出」をより理解できることにもなるので、今回、この文言の意味するところを書いてみたいと思う。

先に結論を書いてしまうと、「ゼロベクレルなど幻想」ということになる。
そして、これがこのエントリで書きたかった本題になる(長い前置き)。


そもそも「検出」とは何だろうか。
簡単なように思えて、考え出すと簡単ではない。
単純なイメージとしては、「あるサンプルの中から、特定の物質を見つけ出すこと」ということになるだろうか。

例えば、ある土のサンプルから、プルトニウムが「検出」されたとする。
このとき、「プルトニウムがあった」と言うことは、基本的には正しいだろう。
では、プルトニウムが「不検出」だったとき。
プルトニウムが無かった」と言うことは正しいだろうか。
これは正しくない。不検出であったとしても、「無かった」とは言えない。
これはどういうことか。具体的な数字で考えてみる。

土壌中のプルトニウム239を例に考えてみる。
(実際的にはPu239+240になるが、話が複雑になるのでPu239のみとして考える)

土壌中のプルトニウムの分析目標値(≒検出下限値)は、一例として0.04Bq/kgとされている。
“検出下限値”と言えば、一部では
「検出下限値未満の放射能は検出されないなんて酷すぎる」「ゼロベクレルとは言えない」
などと批判されるわけだが、これはまさしくそういう数字だ。
検出下限値未満の放射能は検出されないし(=不検出)、当然、不検出だからといってゼロベクレルでは全く無い。

この辺を、もう少し具体的な数字で見てみる。
土壌のプルトニウムの検出下限値が0.04Bq/kgであるとして、ここでBq(ベクレル)という単位は、1秒間に原子が壊れて放射線を出す件数のことだから、0.04Bqであれば1秒間に0.04個のプルトニウムが壊れて放射線を出すこと意味する。
ただ、“0.04個のプルトニウム”と言っても分かりにくいから、言い換えると、25秒間に1つのプルトニウム原子が壊れて放射線を出すのと同じ。
これが0.04Bqと言うことになる。

ところで、プルトニウム239の半減期は24000年以上。
つまりプルトニウム239が100個あったとして、それが壊れて半分の50個になるのに24000年以上かかるわけだから、(あまり良くは無いが)単純平均してしまうと、1つ壊れるのに480年ということになる。
0.04Bqで25秒間に1つ壊れるとしたら、逆に言えば、そこに存在するプルトニウムの個数自体はもの凄く多いことになる。

そこで、プルトニウム239が0.04Bqだったときの原子の個数を計算すると、細かい計算過程は省くが、約43,900,000,000個(=439億個)ということになる。

1kgの土の中にプルトニウム原子が439億個あって、ようやく検出できるレベルの0.04Bqに達する。
原子の数という視点で考えれば、そういう話になる。

もしプルトニウムが100億個であれば0.01Bq程度、200億個であれば0.02Bq程度となるが、これでは検出できない。
つまり、1kgの土の中にプルトニウム239が100億個や200億個あったとしても、今の分析技術では見つけられない。
つまり「不検出」となる。


プルトニウムが200億個あっても見つけられないなんて、一体何をやっているんだ!」
世の中には、こういう反応を示す人もいるかもしれない。
でもそれは、「何百億」という、単に大きく見えるだけの数字に反発しているに過ぎない。

なぜなら、例えばプルトニウム239が200億個あったとして、それをグラムに直せば0.000000000008グラムに過ぎないから。
ようやく検出できるようになる、0.04Bq相当の439億個であっても、0.000000000017グラム。

プルトニウムが何百億個、と言うのは、原子の世界の話になるからそういう数字になるのであって、「見つけられないなんて、一体何をやっているんだ!」と言う人がいるとしたら、それは単に表面的な数字で驚いているに過ぎない。


さて、話が少し横道にそれたが、私はこれまでに度々、
プルトニウムストロンチウムなんてその辺にある。あなたの家の庭だって、測れば出ても不思議はない」
ということを書いてきた。
過去の核実験などにより、こういった物質は世界中に散らばっている。

事実、プルトニウムはこれまでにも、日本全国で検出されている。
例えば、長野県や熊本県では5Bq/kgや3Bq/kgという数字が確認されている。
この数字をプルトニウム原子の個数で表せば、5兆個や3兆個といった数字になる(Pu239換算)。
もちろんこれは、原発事故が起きる前の数字。

原発事故とは関係無く、このときの土壌1kgの中には、プルトニウムが何兆個も含まれていたことになる。
もちろんこれは長野や熊本に限った話ではなく、日本全国どこでも同じ話で、土壌1キログラムの中には、数兆・数千億・数百億個のプルトニウムが含まれている。

地面に触って、手に1グラムの土が付いたら、その中にはプルトニウムが数千万〜数十億個含まれていてもおかしくはない。

「あなたの家の庭だって、測れば出ても不思議はない」と書いたのは、そういうこと。
既に世界中、日本中の土に、大なり小なりプルトニウムは含まれている。
サンプルの中に、プルトニウムが439億個以上含まれていれば「検出」となるだろうし、200億個くらいしか含まれていなければ、「不検出」となる。

ただ、ここまでの説明で分かるとおり、「不検出」であったとしても、それは「ゼロ」を意味しない。
今の分析技術では見つけられるレベルに無かった、というだけであって、見つけられなかったからと言って、それはゼロを意味しない。

これはプルトニウムだけでなく、セシウムでもストロンチウムでも同じ。
例えば分かりやすいように、どちらも土壌の検出下限値が0.1Bq/kgだったとしよう。
検出下限値が0.1Bqともなれば、相当な時間や手間をかけて分析しないと得られない値だが、それでも、セシウム137もストロンチウム90も、1億3000万個くらいは必要になる。
検出下限値が0.1Bqという、相当手間のかかる分析を行ったとしても、5000万個くらいでは見つけられない。
「不検出」となる。

100億個のプルトニウム239も、5000万個のセシウム137も、そして5000万個のストロンチウム90も、分析結果は「不検出」となるが、放射能はゼロではない。
100億個のプルトニウム239は0.01Bq相当だし、5000万個のセシウム137・ストロンチウム90は0.04Bq相当だ。
もちろん、プルトニウムが1億個でも、セシウムが100万個でも、それに応じたベクレルは存在する。

例え分析結果は不検出でも、0.01Bqのプルトニウム239(約100億個)からは100秒に1回α線が出るし、0.04Bqのセシウム137(約5000万個)からは25秒に1回γ線が、0.04Bqのストロンチウム90(約5000万個)からは25秒に1回β線が出る。

例えどんなに少なくても、例え不検出になったとしても、原子がゼロで無い限り、そこにベクレルは存在するし、そこから放射線は出る。


「ゼロベクレル」という言葉があり、「放射能が少しでもある限り危険だ」という人がいる。
ここで見てきたとおり、「不検出」はゼロではない。
今の分析技術では見つけられなかった、との意味に過ぎない。
ゼロベクレルにしたい、放射能をゼロにしたいと思うなら、それはプルトニウムストロンチウムが原子レベルでゼロであることを確認しないとならない。
土壌1kgの中に、プルトニウム239やストロンチウム90が、原子レベルで1個も無いことを確認しないとならない。

しかし、そんなことは不可能だ。
プルトニウムストロンチウムが原子レベルで1個も無いことを確認できる、実用的な分析技術なんてこの地球上には無いし、近い将来実用化される見込みも無い。
「ゼロベクレル」なんてものは、あくまで理論上、概念上の世界にしか存在しないものであり、現実世界では幻想に過ぎない。

「少しでも放射能があると危険だ」と、他人の不安を煽る声があるが、そのような声で他人を不安にさせられるなら、これから先の何十年も、他人の不安を煽り続けることが可能だろう。
なぜならば、ゼロベクレルなど現実的には幻想に過ぎないからだ。


もちろん、プルトニウム239が100億個あるからと言って、セシウム137やストロンチウム90が5000万個あるからと言って、それが危険ということにはならない。
100億個や5000万個とは言っても、ベクレルに換算すれば0.01Bqや0.04Bq程度に過ぎない。
これらが体に入れば、α・β・γといった放射線が体内で放出されることにはなるが、例えこれらが体に入っても問題は無い。安全だ。
なぜならば、放射線が放出されるのは事実であっても、その量や程度が小さいから。
安全と言えるのは、その量や程度が小さいからであり、決して「ゼロだから」でも「不検出だから」でも無い。

一方で、プルトニウムが100億個、ストロンチウムが5000万個と言われると、不安になってしまう人もいる。
「少しでも放射能があると危険」と言われると、不安になってしまう人がいる。
これらは、実際に放射能が危険なレベルにあるから不安になるのではない。
「100億」とか「5000万」とか、あるいは「プルトニウム」とか「ストロンチウム」とか、そういう文字を見て、不安になってしまうのであって。

安全なものなのに、100億個とか5000万個とか、そういう文字を見ると不安になってしまう。
「安全」と「安心」は別物とは、そういうことを意味している。



さて、話をストロンチウム騒動に戻す。
繰り返すが、私はこの騒動の当初、このような趣旨のことを書いている。
「横浜に原発由来のストロンチウムが全く無かったとまでは言わない。ひょっとしたら、100ベクレルのうち1ベクレルくらいは原発由来かもしれない。ただ、いずれにしても横浜のやり方では原発由来とは判断できない」

放射能に色は着いていないから、仮にストロンチウム90が検出されたとしても、それが核実験由来なのか原発由来なのか、それだけでは区別できないし、仮にストロンチウム89が不検出であったとしても、それがゼロであったことは意味しない。

だから、ストロンチウム90が100ベクレルあったとして、ひょっとしたら1ベクレルくらいは原発由来なのかもしれないし、ストロンチウム89が不検出であったとしても、ひょっとしたら検出下限値未満のものはあったのかもしれない。

ただ、繰り返すが放射能に色は着いていない。
「かもしれない」という話はあくまで「かもしれない」でしかない。
「かもしれない」だけなら何とでも言える。
何かをハッキリと言うからには、そうと言えるだけの根拠が必要だ。
それが、放射能であれば「信頼の置けるレベルの分析結果」ということになる。

原発由来かどうか。
それを考えたいのなら、比較するサンプルの条件を整えることが必要だし、あるいは短半減期核種を捉える意味で、ストロンチウム89を分析することが必要だった。
横浜側はそれをしなかったが、東京側は行った。
その結果として、東京に原発由来ストロンチウムが届いていたことが確認された。
今回の話は、そういうことになる。

もちろん、東京に届いていたとは言っても、ごく微量で心配する必要は無いし、仮に不検出であったとしても、それがゼロであることは意味しない。
当然、東京以外で分析して不検出であったとしても、もちろんゼロであったことは意味しない。
ひょっとしたら、検出できないレベルのストロンチウム89は飛んできていたの「かもしれない」。

ただ、重要なのは、何かをハッキリと言うからにはそう言えるだけのキチンとした根拠が必要で、そしてその量がどの程度であったかを評価することが重要だということ。
「ゼロか/ゼロでないか」は重要ではないし、むしろ、ゼロを追い求めることは不毛だし、現実的には無意味だし、何より不可能なこと。
東京で微量のストロンチウム89が検出されて、原発由来のストロンチウムが“ゼロではなかったことが確認された”からといって、心配するような話では無いということ。
なぜならば、量としては微量に過ぎないから。


さて、今回は特に長くなってしまったので、以下は余談も兼ねての締めくくり。

これまで、不検出とは“今の分析技術では見つけられない”趣旨だと書いた。
これは逆に言えば、今後分析技術が進歩すれば、より小さい数字まで見つけられるようになることを意味するし、事実そうだ。
分析技術の進歩に伴って、昔は見つけられなかったレベルまで見つけることが出来るようになっている。

プルトニウムで言えば、今は0.00001Bq/kgといった数字を検出することは難しいが、未来の世界では容易に検出できるようになるかもしれない。
このとき、例えば0.00005Bq/kgというサンプルは、今は「不検出」だが、将来的には「検出された」と発表されることになるだろう。

では、このプルトニウムが「検出された」サンプルは、危険なのだろうか。
今は「不検出」だから安全と思われているサンプルが、将来技術の進歩で「検出」されるようになったら、危険なものに変わるのだろうか。

サンプル自体は変わらなくても、分析技術が進歩したら、安全なものから危険なものに変わるのだろうか。

「検出/不検出」と「危険/安全」とは関係が無いし、そもそも、ゼロベクレルというもが幻想の世界の産物。
「検出と危険」を結び付け、検出されたから危険と考える人をしばしば目にするが、これまで書いてきたとおり、そのような関係は成り立たない。
検出されたから危険だとか、不検出だったからゼロだとか、そういうものでは全く無い。

「検出=危険」と考え、何かが検出されるたびに危険を叫ぶ人もいるが、そのような声は「安全とは何か」という議論に基づいてはいない。
単に、「検出」という単語に感情的に反応しているに過ぎない。

「検出」されれば危険なら、分析技術が進歩すればするほど、危険なものが増えることになってしまう。
大切なのはその量がどれくらいかであって、何かが検出されるたびに不安になる必要は、全く無い。

日本の貯蓄・投資バランス(平成22年度版)

内閣府のHPに、平成22年度のGDP確報(フロー編)がアップされていたので、これまでにも作っていた、日本の貯蓄・投資バランスのグラフを最新のものに更新する。

まずは、民間、政府、海外(経常黒字)の3部門に分けたもの。
(グラフが見にくい場合はクリックで拡大)

内閣府国民経済計算確報 平成21年度・平成22年度)

このグラフの持つ意味としては、大まかに言って、日本国内における貯蓄と投資のバランスを示している。
見方としては、真ん中のゼロを境にして、プラスの側が貯蓄で、マイナスの側が投資を意味する。

例えば2010年を例に取れば、民間が約58兆円の貯蓄になっているのだが、この内訳としては約41兆円が政府、約16兆円が海外によって担われたことを意味している。
(マクロ経済では、経常黒字とは国内から海外に対する貯蓄を意味する。)

プラス側の貯蓄は、どのマイナスの側に引き受けられているかという、国レベルでの資金の状況を示したもので、まぁざっくりと言えば、プラスの側が資金余り、マイナスの側が資金不足とも言える。
そんなわけで、プラスの側の棒の長さと、マイナスの側の棒の長さは概ね一致する。


1980年からざっくりと見ていけば、1990年前後の一時期を除けば、ほぼ一貫して民間側が貯蓄(資金余り)、政府と海外がその引き受け手(資金不足)の関係になっていたことが分かる。
1988年〜1991年の4年間は、民間の貯蓄(プラス)が大きく縮小し、政府が貯蓄(プラス)になっている。
これは、好景気による企業の資金需要の旺盛さにより、家計の貯蓄が企業の投資へと、民間部門内で貯蓄資金が引き受けられていたことを意味する。

一方、1998年、2009年、2010年などは民間の貯蓄が大きくなり、反面、政府の引き受けが増大している。
これは、不景気によって企業の資金需要が少なくなる一方で、政府の国債発行額が増大(つまり政府の資金需要が増大)したことによる。

つまりざっくりと言えば、プラスの側の民間の黒字(貯蓄)は、マイナスの側の政府と海外の赤字によって増減する。
(ちなみに、どこも赤字や借金を引き受けずに貯蓄だけが増える、などと言うことは無い)


次のグラフは、より詳しくお金の流れが分かるように、民間部門を企業(企業・金融機関)と家計等(家計・非営利団体)の二つに分けたもの。
こうすることによって、企業の資金需要の移り変わりが見えるようになる。
(グラフが見にくい場合はクリックで拡大)

例えば、1989年を見てみる。
この年は家計が40兆円くらい貯蓄しているが、一方で企業も同じく40兆円くらいのマイナスなので、家計の40兆円相当の貯蓄分は企業が吸収したことが分かる。
ちなみに、家計のプラス40兆円と、企業のマイナス40兆円が相殺されるので、先程のグラフで同じく1989年を見ると、民間部門内で資金過不足がほぼ相殺されているので、民間の色はほとんど見えず、政府の貯蓄と経常黒字がほぼ同額という形で現れている。

さて、そのようなことを理解して下のグラフをもう一度見てみると、1980年から1990年代初頭まで、ほぼ一貫して投資(資金不足)であった企業部門が、1990年代半ばを境にもう10年以上、一貫して貯蓄(資金余り)に転じていることが分かる。

それまでの日本では、貯蓄主体と言えば家計部門のことだったが、1990年代半ばから近年では、家計よりもむしろ企業が貯蓄(資金余り)の主役になっていることが分かるし、換言すれば、近年の国債資金の主な供給源は、家計の貯蓄と言うよりも企業の貯蓄であることが分かる。


日本の財政を巡って巷では、例えば、
「政府の借金の上限は家計の貯蓄残高だ。家計の貯蓄残高を超えると国債が破綻する」
などといった言われ方をする。

ネットでもよく見かけるし、みずほ総研といったシンクタンクでも、「いずれ国内で国債が消化できなくなる」としてこのように言う。

しかしながら、家計の金融資産に裏付けられた形で国債が国内で消化可能な状況が、今後も永続するとは限らない。
(中略)
将来的に国債残高が家計の金融資産残高を上回ることがマーケットに意識された段階で、国債の国内消化が困難となる可能性は十分にあることを示している。
(PDFの8〜9枚目)
http://www.mizuho-ri.co.jp/research/economics/pdf/japan-insight/NKI100416.pdf

だが上で見てきたように、近年の国債資金の供給源は、家計から企業へと移っている。
新たな国債の引き受け手は、家計部門の貯蓄から、企業部門の貯蓄へと移って来ている。

このような国債の“家計貯蓄上限論”は、家計部門から企業部門へと10年以上も続いている、国債資金の引き受け手の変化を、全く無視したものと言えるだろう。


企業がこのように、投資というリスクを採らず、家計と同じように貯蓄側に回ってお金を使わないのは、つまるところデフレという状況であるからに他ならない。
デフレとは、持っているだけでお金の価値が高まる状態。
デフレという環境では、積極的に投資を拡大して商売を拡げるよりも、リストラして商売を縮小して資金を蓄えた方が、企業にとって有利になるからだ。

リストラして人件費を削減して利益を増やしても、デフレという状況が変らない限りこの傾向は変わらない。
つまるところ、デフレを何とかしない限り、企業の貯蓄熱も変わらないし政府の資金不足も変わらないし、政府が新規国債を増加し続けるという状況も変わらない。
労働者の人件費をいくら削減したところで、デフレである限りは新しい投資も増えないし、経済が本格的な好転を向かえることも無い。

このような状況であるにも関わらず、政府の財政を企業や家計と同じように考える人々は、「政府は支出を削減しろ」と言う。
政府が支出を削減すれば、国民の生活も豊かになるし、財政も健全化するのだそうだ。

ではそれがどういうことか、もう長くなるので少し簡単に考えてみよう。
2番目のグラフの、2010年の棒で考えてみよう。
2010年の棒を見ると、政府(紫)はおよそ40兆円のマイナス(資金不足)になっている。
つまりはこの40兆円程度、借金をして賄っているということだ。

じゃあ試しに歳出削減して、20兆円も削ってみよう。
政府の紫の棒を20兆円削るとどうなるだろうか。

その分、民間側の貯蓄が増える・・・わけは無い。
貯蓄投資バランスでは、プラスとマイナスの量はほぼ一定。
負債(借金)が増えずして、資産(貯蓄)だけが増えるということは起こらない。
マイナスの棒が短くなったのに、プラスの棒だけが長くなることは有り得ない。

つまり、政府の紫の棒を20兆円削れば、その分、民間側の貯蓄の棒が20兆円分減る。
減るのが家計なのか企業なのかは知らないが、どちらにせよ民間の側で貯蓄の棒が20兆円減る。
それだけでは無く、政府が支出を20兆円減らすということは、それだけ世の中に出回るお金も20兆円以上減るという事だから、単にグラフ上で棒が短くなるだけでは済まず、さらなる不況、さらなるデフレになる。

政府が借金して20兆円使うのを止めれば、その分、企業や家計が20兆円使う?
何を馬鹿なと。
企業や家計といった民間部門には資金需要が無いから、そういった行き場のないお金を国債という形で回収して世の中に流している、という姿が分かるのが、ここで紹介した貯蓄投資バランスだと言うのに。

政府がお金を使っている分、その分だけはデフレに歯止めがかかっている。
民間に資金需要が無い中で、それを無くせばどうなることか・・・


デフレという環境下で、金余りの主役は家計から企業へと移っていながら、企業は貯蓄するばかりでお金を使う意欲には欠ける。
その動かなくなったお金を、国債と引換えに政府が回収して、再び世の中に流す。

この国の、そういった姿が分かるのがこの貯蓄投資バランスだし、1998年以降、大きく増加し続けている政府のマイナスは、民間部門で動かなくなった資金を政府が流していることを示している。

国家の財政というものは、企業や家計と同レベルの、削ればいいんだといったレベルで考えるのではなく、こういった視点で考えるべきだろう。

「検出」と「危険」じゃ意味が違う(粉ミルクの話)

■明治の粉ミルク「ステップ」からセシウム、40万缶無償交換(ロイター - 12月06日)
 明治ホールディングス<2269.T>傘下の食品大手、明治は6日、同社の粉ミルク「明治ステップ」(850グラム缶)から1キログラム当たり21.5─30.8ベクレルの放射性セシウムが検出されたことを明らかにした。広報担当者によると、噴霧乾燥する際に使った熱風に一部放射性物質が混入したとみられる。
 国が定める粉ミルクの暫定基準値は1キログラム当たり200ベクレルで、今回の検出量はこれを下回っている。
 セシウムが検出されたのは賞味期限が2012年10月4、21、22、23、24日の製品で、同社は同3、4、5、6、21、22、23、24日の製品約40万缶を無償交換する。


また例によって「検出された」からといって、騒ぎが起きているわけなんだが。
この検出をどう評価すればよいのか、考えてみよう。

まず最初に、この粉ミルクからのセシウム「検出」が、珍しいことであるのかどうか、過去の分析結果から考えてみる。
粉ミルクや、その原料となる脱脂乳については、原発事故が起きる前から分析が行われており、1963年〜2009年までの分析結果を見てみる。
(ここで調べられるhttp://search.kankyo-hoshano.go.jp/servlet/search.top

それによれば、まずは原料となる脱脂乳から言えば、164件の分析が行われていて、その全部で、放射性セシウムが検出されている。
つまり100%検出。
量としては0.058〜184.2Bq/kgになる。

次に粉ミルク(粉乳)では456件の分析が行われ、そのうち444件で放射性セシウムが検出されている。
97%で検出。
量としては0.017〜346.69Bq/kg。
もちろん、この300Bq/kg超という数字は、今の基準なら完全にアウト。
1960年代当時の人は、こういった数値の粉ミルクを飲んでいたことになる。


というわけで、実は「検出」されること自体は特に珍しいことでは無いと言うか、むしろ「検出」されるものの方が大部分であったことが分かる。
量的なもので言っても、近年はさすがに少なくなっていたが、1960年代の核実験が盛んな頃は、今回の30Bqなんて小さくすら思えるような数字も出ている。

この原因だが、もちろん過去の核実験の影響ということになるだろう。
粉ミルクや脱脂乳というのは原料の牛乳から水分を飛ばして、いわば濃縮させているわけで、牛乳などに比べて検出されやすくなっていると思われる。

ちなみにメーカー的に言えば、当時の明治に限らず、森永だって雪印だって検出されていたりする。
(その後、悪影響を考慮したのか、メーカー名は公表せずに記号のみの表示になっている)
検出されれば撤去ということになっていれば、明治に限らず、森永だって雪印だって、市場から粉ミルクは消滅していただろう。


さて、そんなわけで、実はこれまでにも粉ミルクの97%以上で検出されており、検出されること自体は珍しく無いとなれば、では今回検出された値はどの程度のものだったのか、どの程度健康に影響があると考えればいいのか、という点に話しは移っていく。

ということで、まずは今回検出された値から、線量を計算してみる。
今回の検出結果から、放射線量が最大になるようなサンプルを選ぶと、セシウム134が14.3Bq/kg、セシウム137が16.5Bq/kgになる。

と、ここで、これらの数字はあくまで粉ミルク1キログラム中のセシウムであって、実際にミルクとなった場合のセシウムの量ではないのだから、ここではミルク1リットルにした場合のセシウム量で考える必要がある。
今回の明治ステップは約5.6グラムでミルク40ミリリットルになるので、途中の計算は省くが、1リットルのミルクには140グラムの粉ミルクが使われることになる。
そうなると、140グラムというのは0.140キログラムだから、1リットルのミルクに含まれるセシウムは、セシウム134が2Bq、セシウム137が2.3Bqとなる。

これを元に、乳児がミルク1リットルを飲んだ場合の放射線量を計算してみるとこうなる。

セシウム134 : 2Bq×2.6×10^-5mSv = 0.052マイクロシーベルト
セシウム137 : 2.3Bq×2.1×10^-5mSv = 0.048マイクロシーベルト
合計 : 0.100マイクロシーベルト

ということで、赤ん坊が今回最も数値の高かったミルクを1リットル飲んだ場合、0.100マイクロシーベルトであることが分かったわけだが、この数字とはどんなものなのだろうか。


ここでは、始めから母乳や粉ミルクに含まれている、別の放射線と比較してみよう。

母乳にはカリウムが含まれており、カリウムには放射線を出すカリウム40が含まれていることは、もう既によく知られていることだろう。

と、ここで「カリウム40」と書くと、中には「自然放射線と人工放射線を比べるのは妥当でない」とか、「セシウムは蓄積が問題だ」という反応をする人もいるかもしれない。

でも、自然放射線と人工放射線では性質に違いは無く、違いがあるとすればそれは自然・人工という区別ではなく、放射性核種ごとにエネルギー等の違いがあるに過ぎないし、セシウムの蓄積による危険性については、そういう主張は時々見かけはするものの、実はそのエビデンス(証拠)となるものは得られていない。

そんなわけで、放射性セシウムカリウム40の放射線量を比較するのは妥当なので、このまま計算を続ける。


さて、母乳中のカリウムは1リットル当たり470ミリグラム程度だから、そこから計算すると母乳1リットル中のカリウム40は、14Bq程度と見積もられる。
これからの放射線量を計算すると、以下のようになる。

母乳のカリウム40 : 14Bq×6.2×10^-5mSv = 0.868マイクロシーベルト


次に、カリウム40を考えるとなると、セシウムの問題など無くても、粉ミルクには元々カリウム40が栄養成分として多く含まれているのだから、それも考える必要があるだろう。
今回の明治ステップで言えば、100グラム中にカリウムが790ミリグラム含まれているので、(細かい計算は省くが)ミルクを1リットル作った場合のカリウムは1106ミリグラムとなり、その中のカリウム40は34Bqと見積もられることから、線量は以下のようになる。

粉ミルクのカリウム40 : 34Bq×6.2×10^-5mSv = 2.108マイクロシーベルト


ということで、ミルクを1リットル飲んだ場合に受ける放射線量を並べてみるとこうなる。

今回の放射性セシウム    : 0.100マイクロシーベルト
母乳に元々含まれるもの   : 0.868マイクロシーベルト
粉ミルクに元々含まれるもの : 2.108マイクロシーベルト


ということで、今回の放射性セシウムによる線量、最大のものでも母乳の8分の1以下、元々飲んでた粉ミルクの21分の1以下であることが分かる。


さて、そんなわけで、粉ミルクから放射性セシウムが最大30.8ベクレル検出されたという今回の話。
そんなに危険なものなんですかね。そんなに騒ぐほどのものなんですかね。

「検出」ということで考えれば、原発事故が起きる前から、粉ミルクの97%以上で放射性セシウムは検出されていたし、放射線の影響で考えれば、今回のセシウムによるものよりも、母乳とか粉ミルクに元々含まれていたカリウム40の方が、遥かに放射線量は高かった。

こんな言い方は少しアレかも知れんが、今回のセシウムが危険だってんなら、母乳とか粉ミルクとか、これまで遥かに危険なものを与えてたってことになるんだがねぇ。

放射能があった」となれば何か悪いことでもしたみたいに、全面攻撃や批判を喰らう。
まるで、「魔女」とみなされれば袋叩きにあって火あぶりにでもされるかのような、中世の魔女狩りのような感じと言うか。

「検出」されたからって、それがどの程度のものなのかも考えずに、評価もせずに騒ぐ。
そんなことじゃ、国民も企業も、誰も幸せになんかなれないと思うけどね。

「検出」なんて、これまでだって、ほとんど大部分で「検出」されていたんだから。


セシウムは、これまでは97%の粉ミルクで検出されているのに、今回の明治の分析では検出された粉ミルクは少なく、自治体の検査でも検出されていない。これは、明治の検出下限値が5Bq/kgであるように検出下限値の影響によるだろう。

※サンプル1つの測定に何時間も費やして、検出下限値を下げるようにすれば、これまでと同じように、大部分の粉ミルクで「検出」自体はされても不思議ではない。
でもそこまで労力かけて「検出」をしてどうする?
市場からほとんどの粉ミルクを失わせるつもり?
「検出」したんだから回収するべきって言うのは、市場から粉ミルクという商品を無くせって言っているのとほとんど同じ。

※単に「検出」したから回収だってのはそれくらい乱暴な話で、だから、じゃあどのレベルの数値を超えたら流通を止めるべきかってのが、つまりは“基準値”なわけで。
そういう基準値の役割と言うものを理解せず、「検出=売るな」っていう短絡的な思考では、市場から粉ミルクを無くせって言っているのと同じこと。
セシウムなんて、本気になって測れば、どんな食品にだって含まれていても不思議ではないんだから。

※自然放射線と人工放射線は違うとか、セシウムの蓄積が問題だとか、そういう根拠の無い話は反論に値しない。


(追記1)
過去の検出結果が興味深く受け止められているようなので、参考までに、粉ミルクの上位5を書いておく。

346.69 Bq/kg 1963年
322.05 Bq/kg 1964年
233.84 Bq/kg 1965年
169.57 Bq/kg 1964年
159.40 Bq/kg 1964年

ここで、注意してもらいたいのは、これらの数字が全て「セシウム137」についての数字だということ。
今回騒がれている明治ステップの30.8Bq/kgというのは、セシウム134とセシウム137の合計の数字。
セシウム137だけで見れば16.5Bq/kg程度。

つまり、上の60年代の数字、減衰しているとは言えこれとは別にセシウム134もあったんだろうから、セシウム134も含めるとなれば、上の数字のさらに最大1.5倍くらいの数字を考えるべきかも知れない。
ここは間違っていました。

(追記2)
それともう一つ。
60年代の数字が大きく受け止められているようだが、これは50年代は無かったということを意味しない。
ここでデータ期間を63年以降としているのは、数字が残っているのが63年以降だから。
50年代にも核実験は行われているわけで(特に58年は多い)、63年以前も、それなりに含まれていたんだろうとは思う。

大阪の選挙の話

大阪の選挙の話については、本質的には最近日本でよく起きていることが起きただけだと思っているので、あまり興味は無かったのだが、都構想との絡みで地方分権が議論されているので、それに触発されてちょっと思うところがあった。

まず、“地方分権”という言葉については近年の一つの流れと言うか、誰も反対しないと言うか、多くの人にすんなり受け入れられる政治的潮流の一つだと思う。
にもかかわらず、一時期騒がれた“道州制”という言葉がいつの間にか聞かれなくなっているように、やや迷走の感があるというか、あまり上手く進んでいないと言うか。
多くの人に受け入れられ、反対する人は少ないにもかかわらず、目的が達成され、改革が成功したとは言えない感がある。

これと言うのも、自分としては、“地方分権”と唱える言葉は同じでありながら、実はその目的とするところ、目指すところが、地方分権を唱える人達の間で大きく異なっていることが原因の一つであるように感じている。

どのように異なっているか。
地方分権”という言葉について、ある人達はこう考える。

中央集権政治のせいで、日本の行政は肥大化し、二重行政などが多発して効率性を失っている。行政の無駄を無くし、効率化を進めれば、日本経済の活性化に役立つ。
国・県・市町村の役割を明確化し、市町村に権限を委ねて行くべきで、そのためには、基礎自治体である市町村の基盤強化が必要だ。

道州制を推進する人達によく見られるような、コストカットを目的とした地方分権の主張だ。

一方、地方分権を唱える人達の中には、このような考えに重点を置く人達も居る・

中央集権政治では地方のニーズを汲み取れず、画一的な制度など、無駄やミスマッチが生じている。地方の実情をよく理解した、市町村に権限を委ねていくことにより、地域の声に沿った、地域の伝統や文化を生かした行政が達成される。
国・県・市町村の役割を明確化し、市町村に権限を委ねて行くべきで、そのためには、基礎自治体である市町村の基盤強化が必要だ。

先程のものに対し、こちらは、行政サービスの強化を求めるような地方分権の主張と言ったらいいだろうか。


どちらの地方分権論も、霞が関に象徴される中央集権政治に問題があると言い、その解決策こそ地方分権だと説く意味では一緒。
だからこそ、日本の言論空間では、この、コストカットの地方分権と、行政サービス強化の地方分権は、特に違和感無く、同じ目的を持つものとして語られている。

だが、ハッキリ言って、実はこの2つは似て非なるもの。
実際は、目指す方向が全く違うと言っていい。

どういうことか。
それは、2つ目の、行政サービス強化の地方分権論を見るとよく分かる。
一見何も問題が無さそうで、実際にも耳にすることの多い、この2つ目の地方分権論こそ、分かりやすい形でその問題点を示している。

2つ目の、行政サービス強化の地方分権論は、
「地方の声に沿った、地域の伝統や文化を生かした行政が達成される。そのためには、基礎自治体である市町村の基盤強化が必要だ」
と説く。

このような考えに沿って、平成の大合併と言われる、先の市町村合併は行われたわけだが、その結果、地方のニーズに沿った行政が行われるようになっただろうか。
地域の声は行政に届きやすくなっただろうか。

そのようなものも一部にはあるかもしれない。
しかし私が聞くところ、むしろ市町村合併によって行政が大きくなったことにより、“行政に声が届きにくくなった”という声が多く聞かれる。

実は考えてみればこれは当たり前の話で、地域の声を行政に届けようと思ったら、行政はむしろ小さく、議員・職員は多い方がいい。
自分達の声を反映してくれる議員、自分達の声を聞きに来てくれる職員がいて、規模が小さい方が、自分達の声はよりダイレクトに届く。

代弁してくれる議員が少なくなり、組織が大きくなれば、一箇所に集まる意見が多くなる分、自分達の声はむしろ届きにくくなる。

先の合併の結果は、これであったと思う。先の合併は、コストカットのための合併であったと。
自分も含めて、日本国民の多くは、勘違いしていたのだ。

本当は、行政サービス強化の地方分権を目指すのであれば、合併による組織の大型化には慎重であるべきであった。
議員・職員の削減というコスト削減にも慎重であるべきであった。

行政サービス強化の地方分権を目指すのであれば、
「国はカネと権限だけをこっちによこせ。口は出すな。議員も職員もやり方も、後は地方で勝手にやらせてもらう」
そういう形こそ、目指すべき形であったろう。
独立意識の強い、幾つかの西欧諸国のように。


本来から言えば、地方分権の強化とは、カネがかかるものだ。コストが増えるものだ。
コストや効率化だけを考えるのなら、フランチャイズ店の全国一律サービスが一番効率がいい。
組織を大きくして役職員は少数に抑え、小数の企画開発部門が新商品を考える。
それを、決められたメニュー・マニュアルに沿って全国一律サービスで行う。
つまりは中央集権。コストと効率化を考えればそれが一番いい。
考えてみれば当たり前なのだが、コストと効率化を求める民間企業は、自然と中央集権になっていく。

小さいエリアごとに商品開発なんてやってたらどうなるか。小さいエリアごとにマニュアルが違い、サービス方法が違っていたらどうなるか。
そんなもの、非効率でしょうがない。
小さなエリアごとに分社化し、役員を置き、専属の職員を抱えたら、コストがかかってしょうがない。
まるでコスト高の、地方の個人商店の商売だ。

地方分権だって同じ。
地域のニーズを汲み上げ、地域の声に沿った、きめ細やかなサービスを行おうと思ったら、本当は相応のコストがかかるもの。
それを我々は、なんだか勘違いして、コスト削減ときめ細やかなサービスは同時に達成できるものと思ってた。
市町村の規模拡大、議員・職員の抑制と、地域の声の届きやすさは両立できると思ってた。
本当は、ミニ県庁を量産したに過ぎなかったのに。


そんなわけで、多くの人が地方分権に賛成し、少なくとも反対はしないながら、地方分権が満足に成功しない理由。
それは、言葉は同じ“地方分権”を唱えながら、目指すこと・考えていることは全く違っていたというのが、その一つの理由。

残念なことに、日本の言論空間というものは、コストカットの地方分権を唱える人もその効果として行政サービス強化を謳い、行政サービス強化の地方分権を唱える人もコストカットを求める。
本来であれば相矛盾するこの二つの目的が、双方とも発言者の中では違和感なく同居している。
本質的には、相反することなのに。

そのことに気付かずに、コストカットと行政サービス強化、どちらも地方分権の成果として得られるものと、勘違いして語られ続けることが、この国の地方分権がいつまで経っても遠いもので、いつまで経っても満足の得られないものになっている理由であるように思う。


さて、前置きが長くなったが、大阪の件。
大阪では、この“地方分権”を巡る論理の混乱が、都構想論議に絡み、矛盾無く語られていただろうか。
残念ながら、そうとは思えない。

“都構想”の詳細は明確になっていないものの、現状をベースに考えれば、政令市を廃止し、都にするとなれば、それは市へ渡した権限の吸い上げであり、基礎自治体への権限委譲という流れからすれば、逆行となる。

本来は府や県が持っている都市計画などの権限は、政令市となって府県と同格となるからこそ政令市に委譲されたものであり、政令市が解消されれば政令市であることを理由に譲られた権限は、府(都)に吸い上げとなる。

また都構想と言うことで、政令市の解消によって通常の市町村にではなく、特別区になるのであれば、特別区は一応市町村と同じように思えるが、その権限は通常の市町村とは違い、税・建築確認・上下水道などは都の権限とされ、独自に処理することは出来なくなる。
いわば、“都の直轄地”としての色彩を帯びることになり、基礎自治体への権限委譲という流れからすれば、むしろ逆行となる。

また、一方では二重行政の解消などを名目にコストカット・効率化なども謳われているようだが、政令市が解消され複数の市なり区なりが置かれるとなれば、当然それぞれに首長が必要になり、議会と議員が必要になる。当然、選挙費や議会運営費など、“地域の声をきめ細やかに汲み上げるためのコスト”は余計にかかる。

加えて、これまでは“大阪市”という一つの組織として一本化出来ていた意思決定が、複数の市なり区なりに分割することで意見の相違が出てくれば、市(区)間の意見調整にもコストがかかるようになる。

つまり、今の大阪都構想と言うものは、コストカットの地方分権から見ても、行政サービス強化の地方分権から見ても、中途半端と言うかどっちつかずと言うか、要するに何を目指しているのかよく分からない。
これまでの、本来は相矛盾するはずのコストカットの地方分権と行政サービス強化の地方分権を、無意識的に同居させて違和感を持たないような、そういう意識で都構想が語られているように思える。

この矛盾の行き着くところは、結局はコストカットでしかなく、何となく満足の行かない地方分権となってしまったような、これまでの全国規模の“地方分権”と同じ道を歩む以上に、大阪の場合は一方でコスト増加が起きることを思えば、コストカットでさえも中途半端なものになってしまうように思えるのだが。


この辺で地方分権の話を締めくくるが、日本のこれまでの地方分権の流れの物足りなさ、満足のいかなさと言うものは、結局のところ、地方分権と言う唱える単語は一緒でも、コストカットの地方分権と行政サービス強化の地方分権を、同時に満足するビジョンを誰も示せないことにある。
と言うか、始めからそんなものありはしない。

コストカットの地方分権と行政サービス強化の地方分権は、相矛盾するものであり、同時に満足させるビジョンなど、本当はありはしない。
それを、言葉巧みにあたかもあるかのように言い、我々国民もあると思ってしまった。
その勘違いこそが、地方分権を巡る混乱の元になっている。
そして、今まで日本全国で散々に見られたその混乱が、今大阪で、規模を拡大する形で起きているように思える。


結局のところ、私は、橋下氏のやり方というものは、ポピュリズムに過ぎないと思っている。
敵と味方を分かりやすく見せ、“何かが変わる”という思いを有権者に抱かせ、投票に走らせる。
そのやり方は、これまでのポピュリストである、民主党・名古屋河村・阿久根竹原に通じるものがあると思う。
ただ、これまでの民主党などと違うのは、彼のやり方が非常に上手く、明らかな失策が彼には無いということだろう。

また一方で、少々の失点など問題にもならないような、他県には無いような大きな問題を大阪が抱えているという面もあるのだろう。
そういう大きな問題に対し、“変えてくれる”という期待を抱いて投票した人も多くいたのだろうし、逆に言えば、そういう課題に対しては、平松氏は“弱い”と評されたのかもしれない。


正直言えば私も、そういう期待を抱く気持ちについては理解できなくもない。
ただ、それが彼らの望むところと一致し、彼らの生活向上に繋がるかというと、それには疑問を持っている。

まず、市民の生活向上を果たすとすれば、今の日本においては、マクロ経済的な考えをしなければならない。
特に、需要不足を補う視点を持たなければならない。
これは、無駄削減とか赤字解消という発想では対処できない。
むしろ、無駄削減とか赤字解消の対極にある考えだ。
これが根本から不足している時点で、生活向上に繋がるとは思えない。

また、先の地方分権を巡る混乱をそのまま引きずる論調について考えても、その先に明確な考えがあるようには、特に市民の生活向上に繋がるような考えがあるようには思えない。

彼は、市民の不満を吸い上げることはよく出来るだろう。
そして、その不満を、敵対する相手にぶつけることも出切るだろう。
それによって、その相手の勢力を削ぐことはできるだろう。

しかし、それらによって市民の生活が向上するかどうか。
それについては疑問を感じている。
小泉政権と同じように。

外国の基準値の話

別なところで質問を受け、返答を書いていたら長くなったので、“外国の基準値の概要とその考え方”ということで、簡単にまとめたものを新たな日記として。


基準値としては、ベラルーシがこれ(表2)、
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Mtk95-J.html
ウクライナがこれ(表8)、
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Nas95-J.html
ロシアがこれ(表1)、
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Ryb95-J.html
そしてEUアメリカ・コーデックス委員会についてはこれが分かり易いかと思います。
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001tsmk-att/2r9852000001tt44.pdf#page=5

ちなみに、ベラルーシは事故から6年後、ウクライナは8〜12年後、ロシアは8年後にこれらの基準値になっているようです。
それ以前、ソ連時代の基準値(TAL)は、ベラルーシのリンクに書かれています(表1)。

ソ連時代は、食品から許容される内部被曝量が、事故1年目で50ミリシーベルト、事故2年目で25ミリシーベルト、同じく3〜4年目で15ミリ、5年目で2.5ミリとなっており、事故1年目でも5ミリシーベルトの日本の方が、ずっと厳しいですね。


水が2ベクレルなのは、ウクライナの12年後の基準値でしょうか。
ゲルマニウム半導体検出器は、事故時の緊急時モードの約30分の測定では、検出下限値が10Bq/kg程度になるので2Bq/kgは測れませんが、1検体にもっと時間をかけて測定すれば、2ベクレルでも測れますよ。

逆に言えば、1検体に時間をかけられるようになるというのは、それだけ分析器(者)1台(人)当たりの分析数も少なくなって、分析スケジュール的に余裕が出ている状況です。

今の日本でも、かなり低いレベルまで測っている場合もありますが、事故後1年足らずの今の日本のように、次々にサンプルを分析していかなければならない状況では、基準値を2ベクレルまで引き下げて、時間のかかる分析を一律に課すというのは、難しいんじゃないかと思います。

ちなみに、じゃあ現状2ベクレルまで測れないから日本の基準値は危険なのか、健康に影響があるのかと言うと、そういうわけではありません。
先に示した実際の食品の分析結果を用いた被曝線量の推計では、年間0.1ミリシーベルト程度となっていたわけですが、この推計の時には、検出限界未満のデータは一律に10Bq/kgとして計算されています。

つまり、仮に緊急時モードの検出限界10Bq/kgで測っていた機関があるとして、その結果不検出となっていたサンプルがあったとします。
この場合、不検出と言っても実際は0.01Bqであったかもしれないし、あるいは2Bqくらいはあったかもしれないのですが、これらを一律に10Bqとして計算したのが、上の年間0.1ミリシーベルト程度という数字です。

不検出を一律10Bq/kgとして計算しても年間0.1ミリシーベルト程度という数字なので、2Bq/kgまで測っていないから今の日本が危険だとか、そういうことでもありません。


それと、基準値は○ベクレルという形で示されるわけなんですが、一つの食品の基準値だけを比較して高い低いを論じることには、あまり意味はありません。
と言うのも、基準値というのは、その国・地域の食生活、何をどれだけ食べているかといった部分を考慮して定められているからです。

多くの量を食べる食品では高い基準値になるでしょうし、あまり食べない食品であれば低くてもかまいません。
基準値というのは、何をどれだけ食べるかという、その国・地域の住民の食生活に左右されるので、一部だけを抜き出して比べてもあまり意味はありません。

(最後に追記あり


それともう一つ重要なポイントは、ストロンチウムの影響度合いでしょうか。
ウクライナの基準値(AL-97)に特徴的だと思いますが、セシウム137に対するストロンチウム90の基準値は、概ねセシウム137の10〜50%と、かなり大きく取られています。
そして、ウクライナの基準値は、セシウム137とストロンチウム90、双方を合計しても年間1ミリシーベルトを超えないような基準値として設定されています。

ストロンチウム90の線量への寄与は、年齢にもよりますがセシウム137の2〜10倍くらい大きいので、ストロンチウム90に基準値を割り振るほど、セシウム137から許容できる線量が減るので、その分セシウム137の基準値は厳しくなります。

このような、ストロンチウム90の基準値を大きく取る考え方は、ウクライナのような地域では妥当なのでしょう。
チェルノブイリではストロンチウム90の放出量が多く、ウクライナの辺りではそれによる汚染の程度が強いのでしょうから、そういった場所では、このような基準値の考え方は妥当性を持ちます。
ですが、日本のようにストロンチウム90の放出がそれ程でもない場合は、このような基準値を採る必要性は薄くなります。

ちなみに、ウクライナの場合は“セシウム137とストロンチウム90の合算”で基準値の適合性を考えることになっており、仮にセシウム137で基準値を超過しても、一方のストロンチウム90は基準値を下回り、セシウム137で増える分の線量をストロンチウム90の減少分でカバーできる範囲であれば、基準値適合とみなされる考え方をしています。
つまり、セシウム137の基準値もそれが絶対というわけではなく、ストロンチウム90の量によっては、基準値を超過していても許容されることがある、ということですね。

そのようなわけで、ウクライナのようにストロンチウムに基準値を多く割いていたり、セシウム137とストロンチウム90のバランスで判断するような考え方をしている場合、セシウム137の基準値だけを抜き出して他と比較するというのも、また不適当と言うことになります。


このようなわけで、基準値というものは、その国・地域の食生活や汚染状況に合わせて、(言わばオーダーメイドという形で)設定されているのですから、日本とは食生活が違うのに一種類の食品だけを抜き出して比べたり、ストロンチウムに数値を多く割いている基準値からセシウム137だけを抜き出して比較するのは、不適当ということになるでしょう。


(追記)
上で、基準値はその国・地域の食生活に左右されると書きましたが、さらに言えば、その国・地域の汚染状況とも関連があると思います。

例えば、理解しやすいように、飲料水で見ていくと、ベラルーシでは事故から6年後、1992年からの基準値(RAL-92)で18.5Bqとなっていますが、この飲料水の18.5Bqという数字は、ソ連時代における事故から2年後、1988年からの基準値(TAL-88)で既に設定されています。

18.5Bqという数字だけを見ると、現在の日本の基準値(水:200Bq)と比べてかなり厳しそうに思えます。
一方で、肉について見ると、事故から2年後のTAL-88では1850〜2960Bqもありますし、事故から6年後のRAL-92でもまだ600Bqです。

これは推測ですが、ソ連がこのように、事故から2年後の段階で既に飲料水に18.5Bqという数字を設定し得たのは、実際のモニタリングの結果が、既にそのように低いものであったからだろうと思います。
(あるいは、充分に低い値の水を別のところから供給可能だったか)

日本の場合もそうですが、飲料水の汚染というのは比較的早く解消します。
水源が湖や川の場合、放射性物質は沈殿しますし、上流から下流に流れることによって希釈も早く進みます。
地下水の場合は、そもそも地下水脈まではそう簡単に浸透しません。
そのようなわけで、日本でも比較的早い段階から、水の汚染は低下していましたし、今ではもうほとんど問題になってもいません。

一方、肉や穀物、野菜などの食品は、地面に沈着した放射性物質の影響を受けますから、汚染問題が長く残ります。

もしモニタリングの結果、水の汚染がそれほどでもないと分かれば、水の基準を厳しくし、その分を他の食品に振り向けることが可能になります。

ソ連が事故から2年後の段階で、飲料水を18.5Bqという低い値に設定し得たのは、そのような、モニタリングの結果で充分低い値であることが確認できていたから等ではないかと思います。

そして、この18.5Bqという値は、現在のベラルーシの基準値(RAL-92)にも引き継がれていますし、やはりその分、他の食品に基準値を振り向けることが可能になります。

今の日本の基準値は、実際のモニタリング結果に即したものと言うよりも、水が汚染された場合も考慮して、それでもなおかつ一定の線量に抑えられるように考えられたものです。
逆に言えば、水に基準値を振り向けている分、他の食品の基準値が抑えられていると考えられます。

今の日本のモニタリング結果をもってすれば、新しい基準値においては、水については相当厳しい基準値を設定することが可能でしょうし、そこで厳しくした分を他の食品に振り向けることも可能でしょう。

ですが、今の基準値はそういう考えで作られたものでは無く、あくまで水が汚染されるという最悪の場合でも、健康を確保できるように作られているものです。

そのようなわけで、基準値というものは、その国・地域の食生活に加えて、汚染状況にも合わせて作ることが可能な、まさにオーダーメイド的なものです。

おそらく、事故後のモニタリング結果などを踏まえて作られたであろう、水で厳しくした分を他の食料に振り向けることを可能にしている、ソ連ベラルーシの基準値と、水が汚染されることをも想定している今の日本の基準値を、ただ水だけを抜き出して比較するというのも、また不適当なことだろうと思います。

食品の基準値が見直される話

■<食品規制値>「乳児用」を新設 厚労省毎日新聞 - 11月24日)
 食品に含まれる放射性物質の新たな規制値作りで、厚生労働省は24日、食品区分に「乳児用食品」を新設し、食品全般を「一般食品」として一つにまとめたうえで、現行の5分類を4分類にする案を審議会の部会に提案、了承された。同省は放射性セシウムの被ばく限度を現在の年5ミリシーベルトから1ミリシーベルトに引き下げる方針を踏まえ、年内に食品区分ごとの規制値案を設定、来年4月の施行を目指す。
 厚労省は、粉ミルクなど乳児用食品の区分を設ける理由を「食品安全委員会から、小児の期間は感受性が成人より高い可能性が指摘された」と説明した。同委は10月、チェルノブイリ事故で小児に甲状腺がんなどのリスクが増加したとする疫学データを基に同省側に適切な措置を求めた。
 見直しの背景には、幼い子を持つ母親らから「子供にはより厳しい基準を」との意見が同委に多数寄せられたことがある。厚労省もこうした声を重視し、今後対象の乳児用食品を具体的に検討する。
 また、現行の「野菜類」「穀類」「肉・卵・魚・その他」の3区分を「一般食品」としてまとめるのは、「パン」「コメ」など食品ごとに細かく分けると、個人の摂取する食品の偏りによって差が出るためだ。そもそも食品の国際規格を策定しているコーデックス委員会の規制値も「一般食品」と「乳幼児用食品」の2区分のみ。「食習慣の違いによる影響を最小限にし、分かりやすい規制にしたい」(同省)という。
 一方、全世代で摂取量が多い「飲料水」(調理に使う水も含む)や、子供の摂取量が多い「牛乳」は、特別な配慮が必要との考えからそれぞれ独立した区分を設ける。
 現在の暫定規制値は、成人、幼児、乳児の世代ごとの平均的な食品摂取量などを基にセシウムの被ばく限度値を算出。うち最も厳しい数値を規制値とし、全年齢に適用している。新たな規制値も同じ方法で算出するが、年代を「1歳未満」「1〜6歳」「7〜12歳」「13〜18歳」「19歳以上」の五つに細分化。「13〜18歳」と「19歳以上」は男女差により摂取量に大きな違いがあることから、男女別に摂取量を調べ、きめ細かく評価する。【佐々木洋】


新しい食品基準値、これまでの年間5ミリシーベルトが1ミリシーベルトに引き下げられ、新たに乳児用食品の区分が設けられることになった。

基準強化を求めていた人の中には、これを歓迎する人もいるだろうし、まだまだ足りないと思う人もいるだろう。

私としては、基準が強化されても、“国民の健康を守る”という観点からすれば、実質的には影響はほとんど無いと思う。
と言うのも、これまでの基準値でも、国民の健康は既に守られるレベルにあったから。

現在の基準値の持つ意味・考え方については、既に以前に書いている。
○飲食物の基準値の話
http://d.hatena.ne.jp/akatibarati/20110622/1308735760

これで、現在の基準値では年間5ミリシーベルトを超えないこと、乳幼児の感受性にも配慮して基準値が作られていることなどを説明した。
より細かく言えば、食品を5つの区分に分け、それぞれに1ミリシーベルトを割り振り、どの年齢段階においてもそれらを超えないように、最も厳しい年齢段階の数字を元に基準値が作られていることなどを説明した。

では、このような基準値のなか、実際の被曝量はどうかと言うと、厚労省・食品衛生審議会の作業グループによる、実際の食品のモニタリング結果を用いた推計によれば、年間0.1ミリシーベルト程度。
実際にはあり得ない想定だが、モニタリング結果のうち、常に上位10%の濃度の食品を食べ続けるという、現実にはありえないような条件で考えたとしても、被曝量は年間0.24ミリシーベルト程度。
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001tsmk-att/2r9852000001tt3v.pdf

この数字は、年間1ミリという値はもとより、通常の1年間に食品などから受ける内部被曝量(0.4ミリ)をも下回っており、現在の基準値においても、国民の健康が守られる範囲にあることが分かる。
(幼児・小児などと年齢別に見た場合でも同様)

この理由としては、上の「飲食物の基準値の話」でも書いたことだが、今の基準値が年間5ミリとは言え、その計算過程では、市場などによる食品の希釈率を50%とか、ストロンチウムの存在比をセシウムの10%などと厳しく見込んでいたり、放射能濃度の減衰にしても、考慮しているのは物理的半減期による減衰だけで、実際のモニタリング結果ではより速い速度で減っているなど、様々な面で実際より厳しい想定をしていたことが背景にあると思われる。

今の基準値、表面的な数字だけを見れば確かに年間5ミリではあるのだが、計算過程で条件を厳しく見込むことにより、様々な“保険”をかけているので、実際にはかなり低いレベルとなっている。
このように、今の基準値でも健康に影響の無いレベルにあるので、さらに基準が厳しくなったとしても、“国民の健康を守る”という観点からすれば、実際のところ影響はほとんど無いと考えている。

むしろ基準値強化によって影響が出るとしたら、それは国民の健康というよりも、どちらかと言えば食品を出荷する生産者の側だろう。

これまでは例えば肉であれば、500Bq/kgまでなら出荷できていたものが、基準値強化によって100Bq/kgという基準になったとすれば、これまで出荷できていたものでも出荷できなくなる(ただ、食品中の濃度は全体としては低下してきているが)。

基準値強化によって影響が出るとすれば、出荷停止範囲が拡大するという意味で、むしろ出荷する生産者の側であり、国民の健康と言う面では、実際のところあまり影響は無いだろうと考えている。


ところで、基準値の目指すものが年間5ミリから1ミリになると聞けば、普通に考えれば5倍厳しくなると感じると思うが、実はそれほど変わっていなかった、現在でも1ミリ並みの厳しさだった、と言ったらどうだろう。

「5ミリなのに1ミリの厳しさとはどういうことだ。バカを言うな」
と思われるかもしれないが、そう言うのも、食品の希釈率にポイントがある。

EUの基準値は年間1ミリとされており、これだけ見ると5ミリの日本より5倍厳しいと感じられるが、数字の背景に大きな違いがあり、食品の希釈率、日本が50%であるのに対して、EUは10%となっている。

どういうことかと言えば、日本の場合、食品の50%が基準値上限まで汚染されているとして基準値が考えられているのに対し、EUの場合は、同じく汚染されている食品は10%であると考えている。

つまり、日本の場合、口に入る食品の50%は充分に汚染されていると考えるのに対し、EUでは10%しか汚染されていないとしている。食品の希釈率の部分では、日本はEUの5倍厳しく設定している。
日本の今の5ミリシーベルトを元にした基準値は、こういう5倍厳しい条件を元に作られているのであって、条件の部分で5倍厳しくしていることを思えば、表面的には5ミリシーベルトとなってはいても、実際的には1ミリシーベルト相当の数字とも言える。
(ちょっと分かりにくいかな)

日本の5ミリとEUの1ミリ。
表面の数字だけを見れば、EUは日本の5倍厳しい数字にも思えるが、希釈率の部分では、日本はEUより5倍厳しい条件を設定しているので、そのようなことを考慮すれば、日本の5ミリは既に1ミリ並みの厳しさを持っているとも言える。
まぁこの辺、基準値というのは単に額面の数字だけを比較するのではなく、その数字の作られた背景まで含めて考えれば、より多くが見えてくるという話。


さて、そんなわけで少し話が横道に入ったが、話を日本の基準値に戻すと、次の基準値の導き方は、今のところこのように考えられている。

○食品摂取による内部被ばく線量評価における放射性セシウムの寄与率の考え方
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001w5ek-att/2r9852000001w5je.pdf

長文なので、内容をかいつまむと、次の基準値の導き方は以下のようになっている。

ヨウ素131などの短半減期核種は除き、セシウムなどの半減期1年以上核種を規制対象とする
・基準値は、短時間で測定が可能なセシウムについて設定する
ストロンチウムなどは設定しない)
ストロンチウムなどの影響は、セシウムの一定割合あるとして考える
(これまでと同じ)
・これらについて、各年齢段階の食品摂取量を考慮し、基準値を設定していく。

大まかに言って、これらは今の基準値の考え方と同じ。
基準値の導き方で、自分的に注目する変更点としては、以下のようなところ。

ストロンチウムなどの影響を現実に合わせて見直すこと
(現在の基準値は例えば、セシウムの線量が約63%、ストロンチウムが約37%と評価されているが、今後はストロンチウムの評価は小さくなる)
(ちなみにこれは、ストロンチウムの放出量が想定されていたよりも少ないことと、新基準値が始まる来年4月時点では、短半減期のSr89の影響が小さくなることによる)
プルトニウムは独立の基準値ではなく、ストロンチウムと同様、セシウムの一定割合として、セシウムの基準値で判断する
(現実にはほとんど考えられないであろうプルトニウムの影響を大目に見た上で、セシウムの基準値に含めて評価することになるので、現実には安全側の評価となる)

基準値の詳細については、食品に割り当てる介入線量の割り振りがまだ見えてこないので分からないが、成人を例に取り、仮に一般食品に0.5ミリ、飲料水に0.5ミリずつ割り振ったとし、一般食品の一日摂取量を1.6kgとした場合、計算式は割愛するが、単純に計算すると一般食品の新基準値は、50Bq/kg程度になろうかと思われる(今の500Bq/kgの十分の一)。

ただ、今回までのところ、上でも触れた“食品の希釈率”が出て来ていない。
現実的には、口に入る全ての食品が基準値上限まで汚染されているとは考えにくいので、希釈率が使われてくるとは思うのだが、今のところ出て来ていないので、希釈率を使わないケースで単純計算すると50Bq/kg程度。

仮に、希釈率にこれまでと同じ50%を使うとすると100Bq/kgになるだろうし、EUと同じような10%を用いると500Bq/kgとなり、今の基準値とさほど変わらなくなるだろう。
(実際としては、希釈率10%の方が現実に近いんだろうけど)

もちろん、今後示されてくる、各食品区分への線量割り振りとか、各年齢段階の食品摂取量によって値は変わってくるのだが、とりあえずここまで仮の数字で計算してみても、5ミリから1ミリになって5倍厳しくなるのだから、500Bq/kgは100Bq/kgになるだろうとか、単純な五分の一になるとも限らないのは、ストロンチウムとかの影響を現実に即して見直すから。


まぁそんなわけで、また例によって長くなったが、こういう考えで基準値は見直され、新しい値もそれなりの数字に落ち着くのだろうが、国民の健康に与える影響としては、実質的には大して変わらないだろうなと。
なぜなら、これまでの基準値でも、国民の健康は既に守られるレベルにあるのだから。

だから、こういう分析で原発由来と言うのは時期尚早

■横浜のストロンチウム、核実験で降下…文科省(読売新聞 - 11月24日)
 横浜市内で放射性物質ストロンチウムが、市の調査で検出された問題で、詳細な分析を実施した文部科学省は24日、半減期が約50日と短いストロンチウム89が検出されなかったことから、東京電力福島第一原子力発電所事故に伴って新たに沈着したものではないとする結果を発表した。
 同省では、市が採取した堆積物など4か所のサンプルの核種分析を実施。その結果、いずれもストロンチウム89は不検出で、2か所で半減期が約29年と長いストロンチウム90が微量検出された。福島第一原発事故由来ではなく、過去の大気圏核実験によって降下したものと考えられるという。
 市内の2か所から1キロ・グラム当たり59〜129ベクレルのストロンチウムが検出されたとする市の発表について、同省は「ストロンチウム以外の天然核種を足し合わせて測定している可能性がある」と指摘している。

このことについて、文科省から分析結果の内容が公表されている。
まずはこれの概要から。

まず、今回文科省が分析したサンプルは4つ。
うち2つは、9月に横浜市が雨水枡や噴水底部で採取したものであり、残りの2つは、横浜市が採取した雨水枡や噴水底部の周辺の土壌。
ちなみに、分析方法は正確な分析が期待できる、放射化学分析

これらサンプルの放射化学分析による分析結果は、以下のようになっている。

雨水枡      ストロンチウム89:不検出 ストロンチウム90:不検出
雨水枡周辺土壌  ストロンチウム89:不検出 ストロンチウム90:0.82Bq/kg
噴水底部     ストロンチウム89:不検出 ストロンチウム90:1.1Bq/kg
噴水底部周辺土壌 ストロンチウム89:不検出 ストロンチウム90:不検出

横浜市が放射化学分析では無い方法によって行った分析結果では、同じサンプルである雨水枡と噴水底部で以下のようであったから、全然違う結果であったことになる。

雨水枡  ストロンチウム89+90:129Bq/kg
噴水底部 ストロンチウム89+90:59Bq/kg

http://radioactivity.mext.go.jp/ja/5650/2011/5650_1124.pdf


さて、横浜のストロンチウムについて、あのような調べ方では原発由来と言えないことは、以前に書いたとおり。

現段階で原発由来と言うのは時期尚早
http://d.hatena.ne.jp/akatibarati/20111012/1318437469
何の意味も無い検査
http://d.hatena.ne.jp/akatibarati/20111014/1318609260

ストロンチウム89の分析をしていないし、仮にストロンチウム90の量から推測するにしても、溝に溜まった泥などでは濃縮されている可能性があるので、これまでの分析結果との比較に使えるようなものでは無いからだ。

そんなわけで、原発由来かどうかを考えるなら、ストロンチウム89の分析をしないとならないし、それが難しいとしても、せめて過去のデータと比較できるような調査をしなければならない、と書いてきたところなのだが、今回、文科省が調べ直してみたら、ストロンチウム89は出なかったし、ストロンチウム90も過去の核実験の範囲内だったと。

ストロンチウム原発由来かどうか考えたいなら、キチンと化学的にストロンチウムを分析して、文科省のように、ここまでやるべきだ。
と言うか、ここまでやらずして、原発由来かどうかなんて言えるわけがない。

そういうことをせずに原発由来と言い放ってしまった横浜市と、民間分析機関の同位体研究所は、逆に、その程度の分析で、よく原発由来と言えましたねと、そういうレベル。

ハッキリ言って、分析を仕事にしている人間なら、大チョンボと言っていいレベル。
それでよく、環境だ化学だ分析だと言えますねと。


実際のところ、ストロンチウム89の分析は難しい。時間も手間もかかる。
ストロンチウム90の分析も難しいのだが、89はそれ以上に時間も手間もかかる。

そのような分析なので、分析できる機関は非常に限られている。
今回の文科省の再測定も、日本分析センターで行われている。

今、文科省では、福島周辺のより優先度の高いエリアのストロンチウム分析を進めており、日本分析センターの分析陣もそれに携わっている。
本来なら、横浜市を分析したこの限られた分析リソースは、より優先度の高い、福島周辺に充てられるはずであったろう。

それが、横浜で(ロクな分析もしない)市民団体が騒ぎ出し、横浜市もそれに追従したおかげで、本来なら福島に充てられるはずであったろう限られた分析リソースが、この騒動のために浪費されたことになる。

これが仕方の無かったことだと言えるだろうか。
ストロンチウム89を分析できる機関は確かに限られている。
だが、ストロンチウム90の化学分析であれば、もう少し多くの分析機関で出来る。

原子力施設を抱えている県なら、県で持っている分析機関で、ストロンチウム90の分析を出来るはずだ。
神奈川県にも原子力施設があり、県の分析機関があるので、そこに分析能力はあったはずだ。

ストロンチウム89の分析は確かに難しい。それは分かる。
だがストロンチウム90の分析なら、やろうと思えば出来る。
どうして市民団体と横浜市は、せめてストロンチウム90だけでも、キチンと分析しようとしなかったのか。

側溝に溜まった泥のような、過去のデータと比較が出来ないようなサンプルではなく、過去のデータと比較の出来る、開けた場所の土壌を採取して、ストロンチウム90を分析する。

そこまでしておけば、例えストロンチウム89の分析が出来なかったとしても、ストロンチウム90の分析結果から、過去のデータと比較して多いか少ないかが分かるのだから、原発由来かどうかの推測は出来るはずだし、今回の騒動も未然に防げたはずだ。

市民団体と横浜市はそれをせず、過去のデータと比較も出来ないような濃縮の可能性のある泥だけを分析した。
しかもその分析方法にも問題がある。

私はこの騒動の始め、今回の民間分析機関、(株)同位体研究所がどのような方法で分析したのか確認するため、そのHPを見に行った。
そこには、分析法の詳細は書いていなかったものの、ストロンチウムを効率的に回収できるディスクを使った固相抽出法であると。
これまで文科省などが定めてきた、時間と手間のかかる化学的な分析法とは違い、短時間でストロンチウムを分析できる、画期的な分析法であると書いてあった。

私は、HPからは分析法の詳細や精度までは分からないものの、仮にも分析を看板に掲げる機関がここまで書くからには、ストロンチウムの回収自体は確かに精度よく出来るのだろうと思い、したがって観測されたβ線も、89か90かはともかく、ストロンチウム由来なのだろうと思い、以前の日記ではそういう前提で書いた。
(そういう前提でも、過去の核実験の範囲内という結論になっているが)

ところが今回の文科省・日本分析センターの放射化学分析によれば、横浜市同位体研究所がストロンチウム129Bq/kgとしたサンプルでは不検出、同じく59Bq/kgだったサンプルでは1.1Bq/kgであったという。
全然違う。

この大きな違いの理由として、文科省の報告書では、

・ (株)同位体研究所が行った固相抽出法では、ラジウム・鉛などベータ線を放出する天然核種が抽出されることが日本分析センターの実績や海外の文献により示されており、

・このため、横浜市同位体研究所の分析結果は、ストロンチウム89 ・90 のほか、ベータ線を放出する天然核種を含めて測定している可能性がある。

とされている。


つまり、市民団体と横浜市、そして民間分析機関である(株)同位体研究所は、

・過去のデータと比較も出来ないような濃縮の可能性のある泥だけをサンプリングし、
ストロンチウム90を正確に分析する努力も行わず、
ストロンチウムでは無い放射能ストロンチウムとカウントしてしまうような方法で、福島原発由来だと公表した。

これが、化学や分析に携わる人間のする仕事だろうか。

何が「子供を守る」だろう、「政府のウソを暴く」だろう。

やっていることは、杜撰な分析で騒動を起こし、貴重な分析リソースを浪費し、いたずらに人々を不安に陥れる、そういうことじゃないか。

この騒動の中心付近にいる岩上というジャーナリストは、この件について有料メルマガで情報を流しているらしい。
やっていることは何だ。金儲けか。自分の飯のタネか。


この市民団体、最近では、東京でもストロンチウムを探し回っているらしいが。

ストロンチウム 都内3カ所で検出
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011112490065815.html
(この記事には他にもツッコミどころ多数)

この市民団体への大きな疑問。

どうして、いつもいつも、調べるのは側溝などの泥なのか。
どうして、過去のデータと比較できるような、開けた場所の土壌は調べないのか。
どうして、精度ある放射化学分析を行って、正確な放射性ストロンチウムの量を測らないのか。

どれも難しいことではないのに。
これらを行うだけで、より正確に原発由来かどうかを考えられるというのに。

どうして市民団体は、いつもいつも、変な数字の出る分析しか行わないのだろうか。
ストロンチウムなんて、測れば日本中、いや、世界中で検出されてもおかしくないのに。
そのたびごとに、原発由来と騒ぐのだろうか。


あとちなみに、横浜市などでは、(杜撰な分析で)原発由来ストロンチウムが出たと早とちりしたから、
ストロンチウム等の調査範囲を本市内も含め拡大することを要望していく」
としていたのだが、文科省は、報告書の最後、「今後の放射性ストロンチウムの調査範囲について」というところで、それに対する回答となるものを書いている。

それによると、
「放射性ストロンチウム分析を実施していない福島原発100km 圏外でも新たに核種分析を実施する予定である」
としながらも、続く文章で、
「なお、100km 圏外における調査箇所としては、空間線量率が高く、放射性セシウムの沈着量が多い箇所を中心に、調査を実施する」
として、暗に横浜市などはやらん、と言っている。

まぁ当たり前なんだろうけどね。
分析リソースは限られているんだから、線量の高い、より優先度の高い場所に重点的に振り向けるべきで、杜撰な分析で騒いだだけの横浜市なんかやってられんだろうな。
横浜市なんかに分析リソース振り向けてたら、それこそ、線量の高い場所の分析に影響が出るわけだし。

横浜市は、そこのところも考えて、無茶な要求なんてしてるんじゃないと。
まずは、自分達がキチンとした分析をすることから始めろと。
話はそれからだろう。

※ちなみに、ストロンチウム89が不検出となったことについて、半減期が短いから検出限界を下回っただけだろう、との声もある。
もし福島でストロンチウム89が確認されている場所と同程度の飛散があったとすれば、11月時点でも数十ベクレル程度は検出されてもいいはず。
今回の文科省・日本分析センターの検出下限値は約3Bq/kgだから、もし本当にストロンチウム89の飛散があったとすれば、検出下限値を下回るとは考えにくい。